クラシック音楽人名辞典 サ行

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エリック・アルフレッド・レスリー・サティ(フランス:Erik Alfred Leslie Satie
ノルマンディーのオンフルール生まれ(1866〜1925)。母はロンドン生まれのスコットランド人でプロテスタント、海運業を営んでいた父はノルマンディー人でカトリック。13歳の時パリ音楽院に入学しデコンプにピアノを、ラヴィニャクにソルフェージュを習った。音楽の他読書に熱中しアンデルセンに取り憑かれた。1884年(18歳)にマティアスのピアノ・クラスへ進学、「アレグロ」を作曲したといわれている。マティアスに、サティは作曲に向いていると言われノイローゼに陥り退学したが、この頃に二つのピアノ曲「ワルツ・バレエ」と「幻想ワルツ」を作曲。国立図書館とノートルダム寺院の間を往復しながらギリシャ文化やゴシック芸術に惹かれ、グレゴリオ聖歌に夢中になり、その頃に重要作品「オジーブ」が作曲された。反アカデミズムを貫いたが、母亡き後父が再婚した義母がコンセルヴォトワール出身の正当派のピアニストだったところからコンセルヴァトワールに反感を抱き、それが生涯に渡る反官製音楽への抵抗へと繋がる。「ジムノペディ」、「グノシェンヌ」等が有名。
パビオ・デ・サラサーテ(スペイン:Pablo de Sarasate
(1844〜1908年)スペインのヴァイオリニスト・作曲家。19世紀最高の名演奏家として歴史的存在である。その名技は作曲家の創作意欲をかきたて、サラサーテの為にラロのスペイン交響曲やブルッフのスコットランド幻想曲が書かれている。
アーサー・サリバン(イギリス:Arthuer Sullivan
ロンドン生まれ(1842〜1900)。イギリスの喜歌劇王。初めロンドン王立音楽院に学び、後ドイツに留学してライプチヒ音楽院に学んだ。19歳で帰国し、ロンドンの教会のオルガニストになり作曲を始めた。1866年に「コックス・アンド・オックス」を発表、、喜歌劇作曲家として注目を浴びた。1871年以降は台本作者ギルバートと協力して「倍審裁判」、「軍艦ピナフォア」、「ペンザンスの海賊」、「ミカド」などの名作を書き、痛烈な風刺と美しい音楽によってロンドンでの人気を独占した。
カミーユ・サン・サーンス(フランス:Camille Saint-Saens
パリ生まれ(1835〜1921)。フランスの作曲家・ピアニスト。近代フランス音楽復興の先駆者。2歳半でピアノを学び、5歳で作曲、10歳の時には独奏会を開いて神童といわれた。13歳で国立音楽院に学び、グノーにも教えを受けた。初めサン・メリ教会、後マドレーヌ寺院のオルガニストとなり、ピアノでは明晰優美な演奏で一流の名手となった。作品は170を越え、音楽の各種目にわたる。更に1871年には歌手のロマン・ビュシーヌと協力して「国民音楽協会」を設立し、のちフランス楽壇の中心的存在となった。1886年の「交響曲第3番」は歌劇「サムソンとデリラ」と並んで彼を世界的にした作品であるが、ベートーベンの交響曲中に萌芽がみられる循環形式の発展の頂点をなしている。代表作としては他に「死の舞踏」、「動物の謝肉祭」等がある。
ヘンリック・シェリング(ポーランド:Henryk Szeryng
ポーランド生まれ(1918〜88)。メキシコのヴァイオリニスト。ベルリンでカール・フレッシュ、パリでチボーに師事、第二次世界大戦中はイギリスで亡命、ポーランド政府の連絡将校を勤めた。1948年以来メキシコ私立大学音楽学部教授をした。1954年に名ピアニストのアルトゥール・ルビンシテインに見いだされ、彼と共演を重ねて世界的に知られるようになった。優雅で情緒的な表現を特色とする。
アーノルド・シェーンベルク(ウィーン:Arnold Schonberg
ウィーン生まれ(1874〜1951)。オーストリーの作曲家。いわゆる十二音音楽の創始者で20世紀の最も重要な作曲家の一人。ユダヤ系の商人の家に生まれ8歳から作曲を始めたが、生涯ほとんど独学であった。初期の作風は後期ロマン派傾向が強く、弦楽六重奏「清められた夜」(1899)が傑作として知られている。1903年からは作曲の教授を始め、やがてウェーンベルンやベルク等の優れた作曲家が門下生となった。作風は「第二弦楽四重奏」(1908)で完全な無調の時代に入り、「月に浮かれたピエロ」(1912)はこの時代の傑作である。1921年に「十二音技法」の着想を得、1923年にはこの書法による「ピアノ組曲」と「五つのピアノ組曲」を発表した。1933年、ナチスの台頭とともにアメリカに亡命し、教育活動の傍ら多くの十二音音楽を書いた。
ヨーゼフ・シゲティ(ハンガリー:Joseph Szigeti
ハンガリー生まれ(1892〜1973)。アメリカのヴァイオリニスト。13歳の時ベルリンでデビューし、以来ソリストとして活躍した。1926年アメリカに渡り、1951年に市民権を得た。バッハを得意とする一方バルトーク、プロコフィエフらの現代音楽に積極的に取り組み、その紹介に尽力した。フウバイに師事、ヨアヒムとブゾーニの教えも受けた。
ロベルト・シドン(ブラジル:Roberto Szidon
ブラジルのポルト・アレグレ生まれ(1941〜)。ブラジルの医師・ピアニスト。5歳の時にはショパンの「ワルツ嬰ハ短調」を弾き、8歳ではリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」を弾いて天才児として注目された。のち普通の教育を受けて医学への道を歩み、ブラジル陸軍の軍医となった。しかしピアノを忘れた訳ではなく、軍医としての仕事のかたわらピアノと作曲の勉強を続けた。中でもシドンに大きな影響を与えたのはハンガリー出身の名ピアニスト・イロナ・カ−ボシュだった。シドンはニューヨークのクラウディオ・アラウ・ピアノ学校でカーボシュの教えを受け、1968年にピアニストとして身を立てる決心をし、僅か10年の間にシドンの名は世界中に広まった。演奏スタイルは、ダイナミックなタッチと神経の細やかな配慮で組み立てられているのが特徴といえるが、その幅広いレパートリーの中でもリストの作品に素晴らしい味を出している。
ジャン・シベリウス(フィンランド:Jean Sibelius
メハーンリンナ生まれ(1865〜1957)。フィンランド初の世界的作曲家。少年時代はヴァイオリンに熱中し、室内楽に親しんだ。ヘルシンキ音楽院を卒業後ベルリンとウィーンに留学し、フィンランドの民族的大叙事詩「カレワラ」に基づく「クレル交響曲」を発表して大成功を収めた。その後「トゥオネラの白鳥」、「フィンランディア」等の交響曲や「第一交響曲」を作曲していずれも成功した。1900年にはヘルシンキのオーケストラに同行してパリ大博覧会に参加し、国際的名声を得た。耳を患ってから引退したが、その後も演奏旅行も行い、作曲もしている。それからの作品は、交響曲が7番までの他、交響詩「タピオラ」、弦楽四重奏曲「親愛の声」などがある。
マリア・アガータ・シマノフスカ(ポーランド:Maria Agata Szymamowska
ワルシャワ生まれ(1789〜1831)。ポーランドの女流ピアニスト・作曲家。ハイドンの弟子レッセルにピアノを学び1810年ワルシャワパリにデビューした。結婚と離婚を経験して本格的な演奏活動に入り、各地を演奏旅行したのち1828年からペテルブルクに定住、3年後に同地で41歳で死去。ノクターンの創始者ジョン・フィールドから作曲の助言を受け、約90曲のピアノ曲を中心に110曲余の作品を残している。ショパンに21年も先駆けるシマノフスカが早くも母国ポーランドの民族舞曲によるピアノ小品を創作していた事実は重要である。
カロル・シマノフスキー(ポーランド:Karol Szumanowski
(1882〜1937)。ポーランドの作曲家。ワルシャワ音楽院出身。のちベルリンに留学してドイツ・ロマン派の影響を受けたが、やがてフランス印象派およびロシアのスクリャピンの神秘主義傾向に傾き、さらに無調音楽の世界に進んで行った。ただし、その無調的世界は、清冽な叙情を伴うのが特色である。ショパン以降、ポーランドが生んだ最も重要な作曲家とされる。代表作としてはヴァイオリン独奏曲「アレトゥーザの泉」が有名。
ジュリエッタ・シミオナート(イタリア:Giulietta Simionato
(1910〜)。イタリアのソプラノ歌手。1935年にフィレンツェ五月祭でデビューし、1939年からスカラ座の専属となり1966年に引退するまでトップ・スターとして活躍。この間メトロポリタン歌劇場、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ザルツブルグ音楽祭など世界中の檜舞台に立っている。歌唱力と容姿を兼ね備えた希有なオペラ歌手と称されている。
エマヌニュエル・シャブリエ(フランス:Emmanuel Chabrier
オーヴェルニュのアンベール生まれ(1841〜94)。フランスの作曲家。内務省の役人をしながら作曲法を学び、1880年から作曲家として活躍。ワーグナーに傾倒しながらも因習にとらわれない自由な感覚の作品が多く、微妙なリズムも特徴。主な作品は「スペイン狂詩曲」、絵画風小曲集より「スケルツォ・ワルツ」、「ハバネラ」等。
フョードル・イヴァノビッチ・シャリアピン(ロシア:Fyodor Ivanovich Shalyapin
カザン生まれ(1873〜1938)。ロシアの代表的バス歌手。世界最高のオペラ歌手の一人でその演技は絶品とされた。貧しい農民の生まれ。1890年巡回歌劇団に加入して音楽を学び、1896年モスクワの音楽愛好家マモントフの組織した歌劇団に加わった頃から国内での名声があがった。1901年にミラノのスカラ座、1909年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビューし、以来欧米を中心に活躍した。豊麗な声と情感豊かな歌唱力に加えて迫真の演技力にも定評があった。ロシア民謡にも優れた解釈を示し、ロシア民衆の生活感情を歌唱によって絶妙に表現した。ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」のポリス役は最高の当たり役とされた。他「セビリアの理髪師」のドン・バジリオ、マスネーの「ドン・キホーテ」等。
グスタフ・シャルパンティエ(フランス:Gustave Charpenter
(1860〜1956)フランスの作曲家。リール音楽院を経てパリ音楽院でマスネーに作曲を学んだ。1887年にカンタータ「ディドン」でローマ大賞を獲得。その後ローマ滞在中に作曲した組曲「イタリアの印象」で一躍有名になった。代表作には他に「歌劇「ルイーズ」、交響詩「詩人の生涯」等がある。「ルイーズ」はプッチーニの「ラ・ボエーム」の現代版ともいうべきもので、パリのモンマルトルに住む芸術家や庶民の生活を描いて注目を浴びた。
ヤーノシュ・シュタルケル(ハンガリー:Janos Starker
ハンガリー生まれ(1924〜)ハンガリーのチェリスト。後アメリカに帰化。ブダペスト音楽院出身。1946年にフランスヘ、1948年にはアメリカへ渡り、メトロポリタン歌劇場管弦楽団などの主席奏者として活躍し、1959年以来独奏活動に専念して世界的な名声を獲得した。技巧の安定、表現の流暢さでソ連のロストロポ−ピチと並び称される名手。シカゴ近郊にあるインディアナ大学教授もした。日本のチェリスト・堤剛も教え子の一人。
ハインリッヒ・シュッツ(イタリア:Heinrich Schtz
イタリアのチューリンゲン地方生まれ(1585〜1672)。17世紀ドイツ最大のプロテスタント教会音楽作曲家。バッハより100年前に生まれた。美声のため13歳の時にカッセルの少年合唱隊員に迎え入れられて、プロテスタント音楽に習熟し、のち奨学金を得て当時の音楽の中心地だったベネチアに留学した。帰国後は主にドレスデンでザクセン選帝侯宮廷楽長として活躍した。多くの作品のほとんどが教会音楽で、代表作として知られる「クリスマス・オラトリオ」、「ルカ受難曲」、「ヨハネ受難曲」、「マタイ受難曲」はバッハに連なるプロテスタント教会史上希にみる名作といわれる。
カールハインツ・シュトックハウゼン(ドイツ:Karlheinz Stockhausen
ケルン近郊のメトラート生まれ(1928〜)。ドイツの前衛作曲家。ケルン高等音楽学校を経てケルン大学に学び1952年からパリに留学、メシアン等に師事した。1953年に帰国、ケルン放送局の電子音楽スタッフとなり、最初の電子音楽「習作T・U」を発表した。以来、独創的な音楽理論を展開し、現代音楽の先端をいく問題作を発表し続けている。代表作に初期の「コントラ・プンクテ」や電子音楽の最高傑作といわれる「コンタクテ」(1960)等がある。
ヨハン・シュトラウス(父)(オ−ストリー:Johann Strauss
ウィーン生まれ(1804〜49))。商人の家に生まれ、ヴァイオリンを学び、1819年友人ヨーゼフ・ランナーと小楽団を組織してレストランで自作のワルツやギャロップを演奏して人気を博した。1825年ランナーと喧嘩別れし、新楽団を組織、以後ランナーの死(1843年)までランナーとの間で創作・演奏両面での競り合いは“ワルツ合戦”と呼ばれ、ウィンナー・ワルツの形式を確立した功績は大きい。代表作に「ラデッキー・マーチ」他多数がある。
ヨハン・シュトラウス(子)(オーストリー:Johann Strauss
ウィーン生まれ(1825〜99)。父ヨハン・シュトラウスの長男。父の反対を押し切って音楽の世界に進み、1844年楽団を組織し、自作の舞曲を盛んに発表して、たちまちウィーンの人気音楽家となった。1863〜70年ウィーン宮廷舞踏会楽長に就任。ワルツ、ポルカなどの舞曲で父より洗練された作品を書いただけでなく、1871年以後はフランスのオペレッタに刺激されて劇場音楽にも進出し、ウィーンのオペレッタに新生面を開いた。その間、ヨーロッパ各地はもとより、アメリカまで演奏旅行を行い、民衆音楽としてのワルツやポルカの普及に尽力した。代表作にオペレッタ「こうもり」、ワルツ「美しく青きドナウ」、「芸術家の生涯」、「ウィーンの森の物語」、「春の声」、「南国のバラ」、「「皇帝」、ポルカ「アンネン」、「トレッチー・トラッチー」、「雷鳴と電光」、「ピチカート」等がある。
ヨーゼフ・シュトラウス(子)(オーストリー:Josef Strauss
ウィーン生まれ(1827・8・22〜70・7・21)。父ヨハン・シュトラウスの次男。作曲家・指揮者。職業軍人にしようというのが父親の意志であったが、建築の仕事に従事し、やがて技師として成功した。しかし、1853年兄の代理を務めて指揮者としてデビューし、作曲家としても成功。その後1957年までヴァイオリンや作曲を学んだ。兄の楽団の指揮者として活躍したが、生来の病弱と神経質な気質のため衰弱していった。1970年2月の母の死の衝撃のいえぬまま、ワルシャワに演奏旅行に出て、指揮中に卒中に襲われ、ウィーンに運ばれたが回復しなかった。作品は、兄とは違った繊細な感覚をもち、その数は300近い。有名な「ピッツィカート・ポルカ」は兄ヨハンとの共作である。「オーストリアの村つばめ」「ディナミデン」「天体の音楽」等のワルツの他「鍛冶屋ポルカ」「車輪ポルカ」「おんな心」などのポルカが有名。
エドゥアルト・シュトラウス(子)(オーストリー:Eduard Strauss
ウィーン生まれ(1835・3・15〜1916・12・28)。父ヨハン・シュトラウスの三男。作曲家・指揮者。作曲、ヴァイオリン、ハープを学んだ。長兄の楽団でハープをひいていたが、1859年作曲家兼指揮者としてデビュー。演奏活動に重点がおかれたようだが、300曲を越える作品を生み、ポルカ「テープは切られた」その他が有名。
ヨハン・シュトラウスV(オ−ストリー:Johann Strauss
ヨハン・シュトラウス3世(1866〜1939)エドゥアルト・シュトラウスの子。ウィーンワルツの作曲家&セミ・クラシックの指揮者。20世紀初めまで活躍した。
エドゥアルト・シュトラウスU(オーストリーEduard Strauss
エドゥアルト・シュトラウス2世(1910〜60)エドゥアルト・シュトラウスの孫。指揮者。シュトラウス一族の作品を中心とするウィーン・ワルツやポルカなどの演奏に独特の持ち味を示した。
リヒャルト・シュトラウス(ドイツ:Richard Strauss
ミュンヘン生まれ(1864〜1949)。ドイツの作曲家・指揮者。ドイツ・ロマン派の系統を踏む最後の大作曲家。父は同地宮廷楽団のホルン奏者だった。幼少より楽才を示し、1884年にマイニンゲン宮廷楽団の指揮者となり、1886年にはミュンヘンの宮廷歌劇場の指揮者となった。指揮者としての才能は早くから認められ、1889年にはワイマール宮廷劇場の第一指揮者となった。この頃までの主な作品は交響曲が多く「イタリアから」、「ドン・ファン」、「死と変容」等が有名。1894年からはミュンヘン歌劇場の指揮者となり、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、「ツアラトゥストラはこう語った」等の管弦楽曲はこの頃作曲された。1898〜1918年ベルリンの帝室歌劇場の楽長を務め「ドン・キホーテ」、「英雄の生涯」、「家庭交響曲」などの表題音楽的管弦楽曲を書いたが、一方、「サロメ」、「エレクトラ」等の歌劇の成功によて、その後は歌劇の作曲に主力を注いだ。交響曲ではベルリオーズやリストを範とし、ワーグナーの手法を応用して、大管弦楽をすばらしい作曲技巧で使いこなした。歌劇ではワーグナーの手法を生かし、過去のオペラの様式を自分のものにしている。歌曲は生涯にわたって書いていたが、声の美しさを生かした艶麗なメロディーを特徴としている。
アルトゥール・シュナーベル(オーストリー:Artur Schnabel
ポーランド生まれ(1882〜1951)。オーストリーのピアニスト。7歳の時、ウィーンに移り、レシェティッキとマンディチェスキーに学び、8歳の時公開の演奏会を開いた。20世紀前半の代表的なピアニストの一人で、特にベートーベン演奏に定評があった。1900年からベルリンで活躍したが、ナチス時代にスイス、ついでアメリカに移り、主としてアメリカ、イギリスで活躍した。厳密な考証・研究に基づく格調高い作品解釈に特色があり、その演奏様式は20世紀の演奏史に一時期を画した。
フランツ・ペーター・シューベルト(オーストリー:Franz Peter Schubert
ウィーン生まれ(1797〜1828)。オーストリーの作曲家で、ロマン派音楽の先駆者。「歌曲王」と呼ばれる。音楽的な環境に恵まれた家庭に育ち、早くから英才を現した。1808年、帝室礼拝堂の少年歌手試験に合格、礼拝堂付属神学校で一般教育と音楽教育を受けた。1813年、変声のため付属神学校をを去り、父の希望で教員養成課程に1年間学んだ後、父の経営する小学校の助教員となった。教員生活のかたわら作曲活動をしていたが、1818年21歳の時教員生活に終止符を打ち作曲活動に入る。以後、生涯を通して定職に就くことはなかった。付属神学校時代からイタリア出身の歌劇作曲家アントニオ・サリエリに師事して作曲法を学んでいたが、彼の指導の元に1814年歌劇やミサ曲を完成した。しかし彼の才能はこうした大作より歌曲に発揮され、17歳の時「糸を紡ぐグレートヒェン」、18歳の時に「魔王」、「野バラ」などの名作が生み出された。歌曲に限らず室内楽でもピアノ曲でも、当時の市民の家庭で市民達が演奏できるように配慮されたものが多い。貴族や教会のためにではなく、市民のために音楽を作る姿勢を明らかにしていた点、彼は19世紀のまさに典型といえる。器楽曲の分野では、旋律の美しさと親しみやすさ、ロマン的情緒を醸し出す和声法などに見るべきものがあり、未完成に終わった交響曲第8番「未完成」、交響曲第9番「ザ・グレート」にその典型が認められる。代表作は他に弦楽四重奏曲「死と乙女」、ピアノ五重奏曲「鱒」、舞台音楽「ロザムンデ」、ピアノ独奏曲としては、幻想曲「さすらい人」、「即興曲−作品90」、「即興曲−作品142」、「楽興の時」、歌曲集では「美しい水車小屋の娘」、「冬の旅」等。
フランツ・シューベルト(Franz Schubert
ドレスデン生まれ(1808〜1878)。大シューベルト(ペーター)と同名である。ドレスデン宮廷楽団のコンツェルト・マイスターだったフランツ・アントーン・シューベルトの息子で、父親やパリのラフォンに学び、1837年ドレスデン宮廷楽団の副コンツェルトマイスター、1861年にはリピンスキーの後任として主席コンツェルト・マイスターに就任し、1873年に引退するまでこの地位にあった。1860年頃ロンドンで出版された「ルソーの夢」は、このシューベルトのものと考えられる(真意の程は明らかではない)。
ルイス・シュポーア(ドイツ:Louis Spohr
(1784〜1859)。ドイツのヴァイオリニスト・作曲家」。少年時代から音楽の教育を受け、1804年以後楽壇にデビュー、各地で成功して演奏家・作曲家として高い名声を得た。ゴータの宮廷礼拝堂指揮者、フランクフルトのオペラ劇場指揮者などを経て、1822年カッセル宮廷礼拝堂楽長に就任、終生この職にとどまった。多作であるが、特に協奏曲、オペラ等の分野で重要な作品を残した。
ロベルト・アレクサンダー・シューマン(ドイツ:Robert Alexander Schumann
(1810〜56)。ドイツ・ロマン派の作曲家・批評家。教養ある書籍商の家に生まれ、父の影響を受けてロマン主義文学に興味を示した。大学では法律を学んだが、パガニーニのヴァイオリン演奏を聴いて感動し、音楽家になる決心をした。始めピアニストを志したが、無理な練習のため指を痛め、作曲家を目指した。こうした事情から、1830年代の初期の作品はもっぱらピアノ独奏曲に限られている。創作活動のかたわら1834年、24歳の時先輩や友人と「音楽新報」を創刊、主筆として10年間健筆をふるった。この批評活動を通じて、新しい音楽を目指して努力する人たちを強力に支持した。ショパンとブラームスをドイツ楽壇に紹介し、また、シュールトの「交響曲第9番」を発見して紹介した。1840年、30歳の時、恩師フリードリヒ・ウィークの娘クララと結婚、創作の重点をピアノ曲から歌曲に移し、この1年間で多数の歌曲の名作を一気に生み出し、シューベルト以降のドイツ・ロマン派歌曲の隆盛に決定的な役割を果たした。詩と音楽の洗練された結びつきに、かつての文学青年の感覚の冴えが認められる。代表作は四つの交響曲を初め、「マンフレッド序曲」、「ピアノ協奏曲イ短調」、チェロ協奏曲イ短調」、ピアノ五重奏曲変ホ長調」、ピアノの為の作品としては「謝肉祭」、「子供の情景」、「クライスレリアーナ」」、「交響的練習曲」、歌曲集としては「ミルテの花」、「「女の愛と生涯」、「「詩人の恋」等。  ※クララ・シューマンはカ行にあります。
アルベルト・シュヴァイツァー(フランス:Albert Schweitzer) 
ドイツのカイゼルベルク生まれ(1875〜1965)。フランスの進学者・哲学者・医者・音楽家。「アフリカの聖者」として知られる。カイゼツベルクの牧師の子に生まれギュンスバッハで育った。シュトラスブルク大学で神学と哲学を学んだ後大学の講師および牧師となり、また幼少の頃から習い覚えたオルガンとピアノの名演奏家となった。30歳の時、病気と貧困に苦しむアフリカ黒人の為の医療奉仕を決意し医学を修めた。1913年38歳の時、社会的な地位と名誉を捨て夫人と共にアフリカのガボンに渡り、ランパネリに病院を開いて医療とキリスト教の伝道に従事した。音楽活動としては、医療救済の基金集めの為に世界各地で演奏界を行った。第二次世界大戦中に思いついた「生命への畏敬」という言葉は以後の彼の哲学の根本思想となり、生活信条ともなった。そして戦争に反対し、折あるごとに核戦争反対を叫び、世界の平和を悲願とし、ヒューマニズムに徹した。1952年ノーベル平和賞を受賞。
ペーター・シュライアー(ドイツ:Peter Schreier
(1935〜)。ドイツのテノール歌手。旧東ドイツを代表する名手。ドレスデン十字架合唱団員のあとウェーバー音楽大学で学び、卒業後の1959年にドレスデン国立オペラでデビュー、29歳の時に宮廷歌手の称号を受けている。バイロイト歌劇場、メトロポリタン歌劇場、スカラ座等にも出演した。20世紀後半を代表するリリック・テノール。オペラだけではなくリートでも大きな足跡を残している。
カルロ・マリア・ジュリーニ(イタリア:Carle Maria Giuleni
(1914〜)。イタリアの指揮者。サンタ・チェチーリア音楽院でヴァイオリンを学び卒業後に指揮を学び直す。イタリア放送響、ウィーン響、ロサンゼルス・フィル等を歴任、この間にスカラ座の主席指揮者も勤めた。イタリアの指揮者にしては珍しくオペラよりもコンサートに才能を見せている。
エリザベート・シュワルツコップ(ポーランド:Erisabeth Schwarzkoph
プロシア(現ポーランド)生まれ(1915〜)。ドイツのソプラノ歌手。名歌手イヴォーギンの教えでアルトからソプラノに転じ1938年にデビューし、1943年にウィーン国立歌劇場と契約して本格的な活動を始めた。その後はドイツ系オペラのコロラトォーラとして、またリートの女王として声楽界の頂点に立った。歌唱力・容姿ともに限りない気高さを漂わせた20世紀最大の歌手。
ドミトリー・ショスタコヴィッチ(ロシア:Dmitriy Shostakovich
ペテルブルグ生まれ(1906〜75)。ソ連(ロシア)を代表する作曲家・元最高会議代議員。ピアニストの母の影響で早くからピアノに親しみ、レニングラード音楽院ではピアノと作曲を学んだ。卒業作品の「第1交響曲」で注目を浴び、指揮者ブルノー・ワルターらによって西欧にも紹介され、一躍世界的作曲家になった。俗悪な表題音楽には反対しているが、思想内容の無い音楽も否定している。その意味でネオ・ロマンといえる。国民楽派やチャイコフスキーあるいはスクリャビンらのロシアの伝統を受け継ぐとともに、外国のあらゆる音楽からも学んでいる。15の交響曲から映画音楽まで、あらゆるジャンルで成功している。歌劇「カテリーナ・イズ・マイロワ」、オラトリオ「森の歌」、ピアノ五重奏曲、無伴奏混声合唱曲「10の詩」、ピアノ曲「24のプレリュードとフーガ」等。
フレデリック・フランソワ・ショパン(ポーランド:Frederic Farancois Chopin
ワルシャワ郊外のジェラゾバーウォーラ生まれ(1810〜49)。ポーランドの作曲家。ピアノの詩人と呼ばれる。フランス人の語学教師の父とポーランドの貴族出身の母の間に第2子として生まれた。ピアニストと作曲家としての才能はきわめて幼少から現れている。しかし、師事した教師は、ピアノのジーブニとワルシャワ音楽院時代の作曲のエルスナーの二人だけで、いずれも短期間に終わり、それ以後は終生誰からも教えを受けていない。従ってショパンのピアニストおよび作曲家としての才能は全く天賦の独創によるものであったといえる。1830年の春と秋にワルシャワで開いた演奏会の熱狂的な成功のあと、世界へ旅立ち、1831年パリへ到着、その後他界するまでの約20年間をパリを中心に活躍した。フランスで生活するようになってからは、子供時代から侵されていた肺結核のために演奏家としての生活に耐えられず、もっぱら作曲と教師としての生活を送った。ショパンの作品は、ピアノという楽器そのものとその演奏に定着して書かれたものであり、それが極度に洗練され、優雅に表現されている叙情味溢れる詩曲であり、ポーランドとフランスの二つの民族性が浸透している点に特色がある。作品は非常に少なく、17の歌曲、5曲の室内楽曲、1曲の吹奏楽曲、二つのピアノ協奏曲、多少のオーケストラつきピアノ曲で他はすべてピアノ曲である。ソナタ3曲、バラード4曲、スケルツォ4曲、ポロネーズ16曲、マズルカ60曲、ノクターン21曲、ワルツ21曲、練習曲27曲、前奏曲26曲、幻想曲1曲、ベルスーズ(子守歌)1曲、バルカロール1曲、その他2〜3曲の小品、これがショパンのすべてである。
アンドレ・ジョリペ(フランス:Andre Jolivet
パリ生まれ(1905〜74)。フランスの作曲家。メシアンと共に現代フランス作曲界の重鎮。初め、前衛作曲家エドガー・バレーズに師事し、1936年メシアンらと作曲家のグループ “若きフランス” を結成した。第二次世界大戦後は協奏曲に興味を示し、原始的な要素と叙情的要素、リズム的要素の対立と抗争の中に、独創的な音楽的緊迫と安定を求め、創作を続けた。代表作として「オンドーマルトノと管弦楽のための協奏曲」、「トランペット協奏曲」、「ピアノ協奏曲」等。
ウンベルト・ジョルダーノ(イタリア:Umberto Giordano
フォジア生まれ(1867〜1948)。イタリアのオペラ作曲家。美術家の家に生まれた。ナポリ音楽院に勉学中、1889年ソンツォーニ社第2回懸賞オペラに応募した「マリーナ」が認められ、以後暫くベリズモ・オペラ(市井の人々の生活を描く)の作曲家として活躍した。1896年初演の「アンドレア・シェニエ」はフランスの詩人シェニセの半生を描いた代表的作品で、他に「フェドーラ」、「シベリア」等異色昨がある。
しらいみつこ(日本:白井光子)
1947〜)日本のメゾ・ソプラノ歌手。武蔵野音楽大学修了、シュトゥットガルト音楽大学でK.リヒターの教えを受けた。1970年代にヨーロッパの数々の声楽コンクールに上位入賞し、以来ドイツで優れたリート歌手として夫のピアニストのヘムルート・ヘルと共に世界各地でコンサートを行っている。カールスルーエ音楽大学とザルツブルグ・モーツアルテウム音楽院の教授。
ベニアミーノ・ジーリ(イタリア:Beniamino Gigli
(1890〜1957)。イタリア出身の20世紀前半を代表するテノール歌手。1914年にデビューし、1920年からメトロポリタン歌劇場を中心に活躍、スカラ座など世界の大舞台で活躍した。ベルカント唱法を極め、オペラだけでなく古典歌曲やナポリ民謡なども得意とした。
エフレン・ジンバリスト(ロシア:Efrem Zimbalist) 
ロシア生まれ(1889〜1970)。ロシアのヴァイオリニスト、のちにアメリカに帰化した。ペテルブルグ音楽院でアウアーに師事、18歳の時ベルリンでデビューした。1911年にアメリカに渡り、その後世界各地を演奏旅行し、ハイフェッツやエルマンと並ぶアウアー門下生の逸材として世界的な人気を得た。1941〜61年カーチス音楽院院長として後進の指導にあたった。
アレッサンドロ・スカルラッティ(イタリア:A・Scarlatti
(1659〜1725)。18世紀イタリアのオペラの代表的作曲家。ドメニコ・スカルラッティの父。
ドメニコ・スカルラッティー(イタリア:Domenico Scarlatti
ナポリ生まれ(1685〜1757)。後期バロック時代のイタリアの作曲家・チェンバロ音楽の大家。父はアレッサンドロ・スカルラッティ。初め、ローマでオペラや教会音楽の作曲家として活躍、のちスペインのマドリードに定住した。彼はバッハやヘンデルと同年の生まれだったが、作品の殆どがチェンバロ音楽であることから “バロック時代のショパン” ともいわれる。600曲以上にもおよぶチェンバロ曲はすべて1楽章制のものであるが、形式的には次の古典派音楽のソナタ形式を予示するものがあり、演奏技巧の面においても両手の交差、広い跳躍など当時としては最高の技法を駆使している。
アレクサンドル・ニコラエビッチ・スクリャビン(ロシア:Alexander Nikolaievich Skeyabin
モスクワ生まれ(1872〜1915)。ロシアの作曲家・ピアニスト。モスクワ音楽院で作曲をダニャエフとアレンスキーに学び、ピアノ科を金メダルで卒業した。最初ピアニストとして出発し初期の作品にはショパンの強い影響がみられる。その後リストやワーグナーに傾倒するが、やがて独自の作風へ進む。1907年頃から神智学という神がかった哲学に没頭し「神秘音楽」や「色光ピアノ」を考え出した。特に無調音楽に接近している点が重要である。作品は、ソナタや前奏曲など多数のピアノ曲と、三つの交響曲、交響詩等。
ヨハン・フィリップ・スーザ(アメリカ:John Philip Sousa
(1854〜1932)。アメリカの吹奏楽指揮者・作曲家・ヴァイオリニスト。「行進曲王」と呼ばれて、作品には行進曲が多い。初めヴァイオリニストになったがやがて吹奏楽に転向、1880年に25歳でワシントンの海兵軍楽隊長に就任した。1892年、この地位を辞してみずから「スーザ吹奏楽団」を組織してアメリカ国内はもとより、ヨーロッパにも5回に渡る演奏旅行を行って絶賛を博した。吹奏楽の作曲に傑出した才能を示し、「星条旗よ永遠なれ」、「ワシントン・ポスト」、「士官候補生」など数多くの行進曲の名曲を残した。
アイザック・スターン(ソ連:Isaac Stern
ソ連生まれ(1920〜2001)。幼時にアメリカに移住し、11歳でデビュー、17歳でヨーロッパ各地に演奏旅行をするほどの天分を示した。正確な技法と艶のある豊かな音色、迫力ある奏法は他の追随を許さない。レパートリーも古典から現代まで、きわめて広い。
ジョゼッペ・ディ・ステファノ(イタリア:Guiseppe di Stefano
ナポリ生まれ(1921〜)・イタリアのテノール歌手。ミラノで学び1946年にデビューしたのちスカラ座をはじめメトロポリタン劇歌場、ウィーン国立歌劇場、パリのオペラ座、コヴェント・ガーデン王立歌劇場などでリリック・テノールの第一人者として活躍。ソプラノ歌手・マリア・カラスとの共演でも有名。ナポリ民謡も絶品である。
レオポルド・ストコフスキー(イギリス:Leopold Stokowski
ロンドン生まれ(1882〜1977)。アメリカの指揮者・オルガニスト。オクスフォード大学、ロンドンの王立音楽院およびパリ音楽院に学び、オルガン奏者としてデビューした。1908年アメリカのシンシナティ交響楽団の常任指揮者に就任、のち実力を認められて、1912〜36年の間フィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者となり、この楽団を世界的な水準にまで引き上げた。レコードの録音に熱心で、その発展に貢献したことでも有名。「オーケストラの少女」、「カーネギー・ホール」等の音楽映画に出演、クラシック音楽の普及に努力した。指揮棒を持たない華麗な指揮が世界的な人気を呼んだ。
J・アントニオ・ストラディバリ(イタリア:Giacomo Antonio Stradivari
(1644頃〜1737)。イタリアの弦楽器製作者。古今第一級の名器を残した。クレモナでニコロ・アマーティに弦楽器製作技術を学び、1664年からヴァイオリンを作り始めた。のち、次第に改良を加え、1682年以後独創性が強まり、1702年に現在用いられている標準型に達するとともに、その技術は完成の域に達した。今日知られる彼の作品はヴァイオリン約600、ヴイオラ12、チェロ50、その他数種である。生前その名は既に外国にも広まり、作品は名奏者達に愛用された。
イゴール・フヨードロヴィッチ・ストラビンスキー(ロシア:Igo’l Fyodorovich Stravinskiy
ロシア生まれ(1882〜1971)。アメリカの作曲家。20世紀を代表する作曲家の一人。著名なバス歌手を父に持ち、幼少から音楽に親しんだが、職業的音楽家を志したのは比較的遅い。ペテルブルグ大学で法律を学んでいる時、偶然にリムスキー・コルサコフの息子と知り合い、その父に紹介され、その勧めで作曲の道に入った。ディアギレフのロシア・バレエ団の依頼で作曲した「火の鳥」(1910)で一躍世界的作曲家となり、「ペトルーシカ」(1911)、「春の祭典」(1913)と次々にバレエ音楽を書いて話題をまいた。「春の祭典」を頂点とする彼の創作の第一期は原始主義と呼ばれ、ロシアの異教徒的音楽をもとにした激しいもので従来の西洋音楽を圧倒した。ロシア革命後ヨーロッパに亡命してロシア的基盤を失うとともに、新古典主義と呼ばれる作風に転身した。1940年、アメリカに渡ってから再び作風を変え、音列作法なども取り入れた。この頃から指揮者になり、自作を積極的に演奏するようになった。代表作は他に「兵士の物語」、「結婚」、「オイディプス王」、「詩編交響曲」、「ミサ」、「「七重奏曲」、「トレニ」、「洪水」等。
フランツ・フォン・ズッペ(イタリア:Franz von Suppe
ベルギー系(1819〜95)。オーストリーの喜歌劇作曲家。ウィンナ・オペレッタの創始者。イタリアで育ち、11歳でフルートを、13歳の頃から声楽を学び、14歳で教会のためのミサ曲を作曲した。その後イタリアのパドバ大学で哲学を修め、のち、ウィーン音楽院に学んだ。1841年からはプレスブルグのバーデン劇場などの専属作曲家として喜歌劇、バレエなど多くの作品を発表した。代表作は「美しいガラテア」、「詩人と農夫」、「軽騎兵」「ポッカチョ」等。
ストリーボッグ(ベルギー:Streabbog
アントワープ生まれ(1835〜1886)。ベルギーの作曲家。本名を Jean Louis Gobbaerts という。ブリュッセル音楽院でピアノと作曲法を学び、ピアノ小品を1,200曲も作曲している。殆どが子供向けのピアノ小品で、ピアノを練習している子供は必ずストリーボッグを演奏するといっても過言ではない。Streabbog はペンネームで、他にも Ludovic Levy という名前で出版されているものもある。作品は「ギャロップ」、「タランテラ」、「スコッチ・ポルカ」、「スケルツォ・ロンディーノ」等。
ヤン・ピータースゾーン・スベーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck
(1562〜1621)。ネーデルランド(オランダ)のオルガニスト・作曲家。アムステルダムで活躍し、イタリアのフレスコバルディとともに17世紀初頭のオルガン音楽を代表する音楽家とされる。16世紀ネーデルランド音楽の伝統とイタリア・イギリス音楽の様式を融合して当時最高の音楽を生むとともに、後進の育成に努めた。門弟からはシャイトら次代のドイツ音楽の代表的人物が多数輩出したので “ドイツ・オルガニストの養成者” といわれた。
ベトルジハ・スメタナ(チェコ:Bedrich Smetana
リトミシル生まれ(1824〜84)。チェコの作曲家。チェコ国民楽派の祖。プラハで音楽の個人教授受け、父の反対を押し切って音楽家となる。1848年からピアニストおよび音楽教師として活躍、1856年スウェーデンに招かれ、5年間に渡り指揮者・ピアニストとしてめざましい活動をした。1861年帰国、1866年チェコ国民歌劇場指揮者となった。創作と演奏の両面で国民歌劇の発展に貢献したが、1874年10月、聴覚を失い引退、以後は創作に専念した。作風はドイツ・ロマン派の影響を強く残しているが、ボヘミアの民謡や舞曲など、民族的要素を十分に生かし、かつ、劇的な緊張力と優れた描写力を備えていた。代表作は歌劇「売られた花嫁」(1886)、6部作の交響詩「わが祖国」(1874〜79)、弦楽四重奏曲「わが生活から」(1876)等。
すわないあきこ諏訪内 晶子)
東京生まれ(1970〜)。日本のヴァイオリニスト。桐朋学園大学で学ぶ。1990年に最年少でチャイコフスキー国際コンクールに優勝。1991年からニューヨークへ留学、1995年にアンドレ・プレヴィン指揮のNHK交響楽団と共演して日本での演奏活動を再開。以後、ベルリン:フィルハーモニー管弦楽団、ボストン交響楽団、パリ管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニック、ミネソタ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、サンクトペテルブルク・フィル・ハーモニー交響楽団、ロサンゼルス・フィルハーモニック、バイエルン州立歌劇場管弦楽団など世界の一流オーケストラと共演。他に世界各地の音楽祭にも出演するなど、世界的活躍をしている。
アンドレス・ゼゴビア(スペイン:Andres Segovia
(1894〜1987)。スペインの天才ギタリスト。独学でギターをマスターし、30歳の時パリで開いた演奏会で大成功を収めた。以後、世界各地を演奏旅行しながら、ギター音楽に高い芸術性を与える努力を重ねた。20世紀のギター音楽は演奏、創作、編曲、教育のいずれをとってみてもゼゴビア抜きでは考えられない。その演奏は多彩な音色、ポリフォニック(※多声的な)な動きを思うがままに生かした個性的なものである。
ジョージ・セル(ハンガリー:Geoig Szell
ハンガリー生まれ(1897〜1970)。アメリカの指揮者・ピアニスト。1917年リヒャルト・シュトラウスの推薦で指揮者としてデビュー。ドイツ、イギリス、チェコスロバキアで活躍したが第二次世界大戦中に渡米し、メトロポリタン歌劇場の指揮者として頭角を現した。1946年にはクリーブランド管弦楽団の常任指揮者に就任し、世界の一流楽団に育てあげた。レパートリーもきわめて広く、ピアニストとしても有能であった。
ルドルフ・ゼルキン(オーストリー:Rudlf Serkin
オーストリー生まれ(1903〜91)。アメリカのピアニスト。ウィーンで学んだのち、名ヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュに認められ、彼の共演者として有名になった。1939年アメリカに移住し、ソリストとして活躍するいっぽう、フィラデルフィアのカーティス音楽院で教鞭もとった。ベートーベンを中心としたドイツ・オーストリー系の音楽をレパートリーとする。


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