クラシック音楽人名辞典 タ行・ナ行

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ダカン(フランス:L.C.Daquin
(1694〜1772年)、バッハやヘンデルと同時代のフランスの作曲家で、クラヴサンの作品を多く残している。「カッコウ」が有名。
たき れんたろう(日本:廉太郎)
東京生まれ(1879〜1903)。明治時代の代表的作曲家・ピアニスト。東京音楽学校(現東京芸術大学)で小山作之助、幸田延、ケーベルらに師事、卒業後同研究科に入り、研究科在籍中に19歳でピアノ教授嘱託となった。翌1900年(明治33年)にドイツに留学し、ライプチヒ王立音楽院でピアノや対位法などを学び始めたが発病して帰国。大分市で静養中23歳の若さで死亡した。日本の洋楽系の最初の本格的な作曲家で、1900年作曲の「四季」(有名な<花>を含む)は、それまでの唱歌とは異なった日本最初の芸術的な洋楽作品である。中学唱歌(無伴奏)の「荒城月(こうじょうのつき)」、「箱根八里」は特に有名である。作風は全体としてドイツの初期ロマン派風、特にメンデルスゾーン風であるが、「荒城月」などは日本的な表現を意識して作られている。遺作の歌曲「荒磯」、ピアノ曲「メヌエット」、「憾(うらみ)」は彼の才能を示す本格的な作品である。
たけみつ とおる(日本:竹満
(1930〜96)。日本の作曲家。ほぼ独学で作曲を学び、1950年代の終わりから日本作曲界の最先端を歩んだ。 緻密で繊細な感性による独特な響きは “タケミツ・ト−ン” と呼ばれ、国内だけでなく海外でも評価された。代表作は、「管弦のためのレクイエム」、「ノヴェンバー・ステップス」、「悲歌」、「カトレーンU」、「海へ」、「ファンタズマ・カントス」、独奏フルートのための「エア」等。
ルイージ・ダラピッコラ(イタリア:Luigi Dallapiccola) 
イストリア・ビジーノ生まれ(1904〜75)。イタリアの作曲家・ピアニスト。少年時代にオーストリーのイタリア人圧迫政策によりグラーツに強制移住させられたが、第一次世界大戦後、フィレンツェのケルビーニ音楽院に学んだ。その間、演奏会などでシェーンベルクやベルクらの十二音音楽派の音楽に触れ、、その影響を受けた。「我が祖国について」(1928)などの新古典派的作品を経て、1934年以降は「十二音作曲技法を取り入れ、「三つの賛歌」(1955)、オペラ「夜間飛行」(1939)、「とらわれ人の歌」(1941)、「解放の歌」(1955)などを作曲した。
フェルッチョ・タリアビーニ(イタリア:Ferruccio Taliavini
レッジョ生まれ(1913〜)。イタリアのテノール歌手。パルマ音楽院に学び、1938年フィレンツェ5月音楽祭のコンクールで1位となり、、翌年同地のテアトロ・コムナーレでプッチーニの歌劇「ボエーム」のロドルホ役で初舞台を踏んだ。以後、スカラ座、メトロポリタン歌劇場など世界の檜舞台で活躍した。明るい声と旋律的な歌いまわしを得意とするベルカント唱法を習得、柔らかく甘美な美声で人気を博した。
エミール・ジャック・ダルクローズ(スイス:Emile Jaques-Dalcroze
ウィーン生まれ(1865〜1950)。スイスの音楽教育家。パリ、ウィーン、ジュネーヴの音楽院で学び、1892年ジュネーヴ音楽院教授となった。リズム教育の重要性に着目し、1905年に研究成果を発表したのを皮切りに、1910年以後ヨーロッパの主要都市に「ジャック・ダルクローズ研究所」を設立、独自のリズム教育n普及をはかった。「ダルクロース・ユーリトミック(ダルクローズ式リトミック)」として知られるその方法は、幼年期に運動感覚と結びつけて体得させようとしたものである。
アレクサンドル・セルゲービッチ・ダルゴムイジンスキー(ロシア:Aleksandr Sergeevich Dargamizhskiy
ツーラ生まれ(1813〜69)。ロシアの作曲家・ピアニスト。初めはアマチュアの音楽家だったが、グリンカと知り合ってから本格的に作曲の勉強に取り組んだ。1841年に初めての歌劇「エスメラルダ」を完成してからは、盛んな創作力を示し、100曲近い歌曲や、代表作である歌劇「ルサルカ」、交響的作品「ババーヤガ」などを残した。特に未完の歌劇「石の客」や晩年の歌曲では、ロシア語の抑揚を音楽に写すことを試み、ボロディン、ムソルグスキーら国民楽派五人組に大きな影響を与えた。
ジョゼッペ・タルティーニ(イタリア:Giuseppe Tartini
ミラノ生まれ(1692〜1770)。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。幼い頃から音楽に親しんでいたが、1709年パドバ大学に進み法律を学ぶ。1713年結婚のために同地を去り、アッシジでヴァイオリン奏法の研究所や作曲を行う。1721年パドバに戻って、聖アントニオ聖堂の管弦楽長となり、その完璧な巨匠的技巧によってパドバ派を創始した。1728年に音楽学校を設立し、ナルディーニを初め とする多数の優れた弟子を養成した。作品には多数のヴァイオリン・ソナタ(有名なヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトゥリル」他)、多数の協奏曲があり、バロック音楽から古典派音楽への移行を示している。音楽理論家としても、結合音の発見や装飾音法の研究などの優れた功績がある。、
フランシスコ・ターレガ(スペイン:Francisco Tarrega
ビリャレガル生まれ(1852〜1909)スペインのギタリスト・作曲家。カステリョンでギターを学び、マドリード音楽院に進む。運指法や弾き方に創意を凝らし、陰影細やかな表現法を達成、近代ギター奏法を創始した。衰退気味だったギターを演奏会用楽器として高めた功績は大きい。バルセロナでギターを教え、プホールをはじめ多くの弟子を養成した。創作は少ないが「アルハンブラの思い出」は有名で、また、バッハら古典の編曲が多い。
だん いくま(日本: 伊玖磨)
(1924〜2001)。日本の作曲家。東京音楽学校(現東京芸術大学)卒。日本人の感性を古典的技法で表した作品が多い。代表作は歌劇「夕鶴」、「ひかりごけ」、交響曲「HIROSHIMA」、「シルクロード」、バイオリンとピアノのための「ファンタジア第2番」、フルート・ソナタ等。
パウル・マリック・ダンデイ(フランス:Paul Maric Theidore Vincent d’Indy
パリ生まれ(1861〜1931)フランスの作曲家。家系は南フランスの高原ビバレの貴族である。9歳で祖母に、ついでディエメール、マルモンテらにピアノを学んだ。アンリ・デュパルクと知り合い、それによってセザール・フランクやリヒャルト・ワーグナーを知った。1873年にパリ音楽院に入学し、フランクに師事した。卒業後は多方面の活動を行い、フランクの弟子中で最も重要な人物となった。1894年に教会音楽の向上を目指して音楽学校スコラ・カントルムを創立し、優れた作曲家を数多く養成した。有名な「作曲法講義」4巻はその講義である。主な作品には管弦組曲「バレンシュタイン」、「山上の夏の日」などがあり、他に交響曲、歌劇、室内楽曲等多数がある。初め、ワーグナーに心酔したが、のちにフランス的な清澄な感覚を重厚な作品に盛った。
ドメニコ・チマローザ(イタリア:Domenico Cimarosa
ナポリ生まれ(1749〜1801)。イタリアの歌劇作曲家。イタリアで活躍したのち1787〜91年、ロシアのエカテリーナ2世の宮廷楽長となり、1791〜93年にウィーンの宮廷楽長となった。ここで代表作「秘密の結婚」(1792)を作曲した。1793年に故郷のナポリに帰ったが、1799年政治事件に巻き込まれ逮捕・監禁され、1800年ナポリから追放された。監禁によって健康を害し、間もなく死亡した。親しみ易い旋律で18世紀後半のイタリアの歌劇の典型を生み出すのに成功した。
ピョートル・イリッチ・チャイコフスキー(ロシア:Pyotr I’ich Chaykovskiy
ウラル地方のウォトキンスク生まれ(1840〜93)。ロシアの19世紀最大の作曲家。小さい頃から音楽に親しんでいたが、1850年にペテルブルグ(現レニングラード)の法律学校に入学し法律を学んだ。1856年に卒業、法務省の官吏となったが、音楽から離れられず、職務のかたわら、新しく解説された音楽院に入学し、やがて音楽に専念するため法務省を退職した。学院ではルビンシュテインやザレンバに作曲を学び、1865年優秀な成績で卒業した。1966年、新設のモスクワ音楽院の教授に迎えられ音楽理論と作曲を教え、活発な作曲活動を始めた。また、新聞 “ロシア新報” の批評家も勤めた。1878年、モスクワ音楽院を辞任し、ロシア各地をスイス、イタリア、フランスなどを旅行しながら創作活動を続けた。1885年頃から指揮者としても登場するようなり、主に自作を演奏した。1891年、アメリカを演奏旅行して大成功を博した。1892年、現在チャイコフスキー博物館になっているクリンの家に住んだ。1893年、第6交響曲「悲愴」が初演されたが、それから9日目、ペテルブルグで生水を飲んでコレラに罹り突然死んだ。チャイコフスキーは音楽のあらゆるジャンルに重要な作品を残しているが、特に六つの交響曲では、民族的要素を柱として、ドイツ・ロマン主義から脱し、独自の世界を開いた。10曲を越える歌劇でも非凡な才能を示したが、バレエ音楽でもでも、ロシア・バレエの全盛期を築いた。ピアノ曲や室内楽曲にも名作が多く、ロシアでは初の本格的作曲家として大きな功績を残した。代表作は、歌劇「エウゲニー・オネーギン」(1877)、「スペードの女王」(1890)、交響曲「小ロシア」(1872)、「悲愴」(1893)、バレエ音楽「白鳥の湖」(1877)、「眠りの森の美女」(1890)、「くるみ割り人形」(1892)、管弦楽曲・序曲「ロミオとジュリエット」(1869〜80)、「スラブ行進曲」(1876)、イタリア奇想曲(1880)、「序曲1812年」(1880)、交響曲「マンフレッド」(1885)、「ピアノ協奏曲第2番ト長調」(1890)、「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(1876)など多数が有名。
トマス・チャントリー(イギリス:Thomas Chantrey
彼の詳細は未評だが、19世紀の中頃ロイヤル音楽アカデミーの教師として活躍、「ルソーの夢による大幻想曲」(1852年ロンドンのウェッセル社から刊行)他ピアノ用の表題による多数が残されており、これらの曲は19世紀なかばのイギリスのサロンで、かなりもてはやされたものと思われる。
カール・チェルニー(オーストリー:Karl Czerny)
オ−ストリー生まれ(1791〜1857年)。オーストリーのピアニスト・作曲家。10歳からベートーベンに学び、20歳頃にはピアニストとして高い評価を受けていた。ベートーベンの曲を弾く名手として有名になりベートーベンのすべての曲を暗譜で弾くことができたといわれる。ベートーベンが晩年に耳を悪くしてからは、しばしば代役を努める程の演奏力を持っていたにも関わらず、公開演奏をあまり好まず教育に専念した。弟子には19世紀最大のピアニストとなったリストをはじめ数多くのピアニストを育成している。「チェルニー」と呼ばれるピアノ練習曲の作曲者として有名。
ジャック・ティボー(フランス:Jacques Thibaud
(1880〜1953)。フランスのヴァイオリニスト。コロンヌ管弦楽団のコンサートマスターののち、ソリストおよび室内楽奏者として活躍。なかでもコルトーとのデュオや、コルトー、カザルスとのトリオは20世紀最高のコンビといわれている。演奏は、高貴・優雅・洗練・官能美などを特徴としており、絶賛された。3度目の来日中に飛行機事故で死亡。
レナータ・デバルディ(イタリア:Renata Tebaldi
イタリア・ペザロ生まれ(1922〜)。イタリアのソプラノ歌手。1939年にパルマ音楽院に入学、1944年にデビューした。イタリアの世界的指揮者トスカニーニに認められ、第二次世界大戦後、スカラ座再興の音楽会に選ばれて歌い一躍有名になった。以来、欧米の一流歌劇場で活躍。技巧に優れた音楽性豊かで、ベルディやプッチーニ、ベリズモ派の音楽を得意とした大プリマドンナである。
ジョスクイン・デ・プレ(フランドル:Josquin des Pres
フランドル出身(1440頃〜1521)。ルネサンス最盛期を代表するフランドル楽派の作曲家。早くからイタリアに渡り、各地の宮廷や教会で活躍し、優れた音楽家として評価されたばかりか、ラテン語作詞をよくして高い教養を示した。晩年にはフランスのルイ12世、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世に仕えた。磨き抜かれた対位法と豊かな感情表現が特徴で、数多くの作品を残したが、なかでもミサ曲「パンジェ・リングワ」が特に有名。
アントニオ・ディアベリ(ドイツ:Antonio Diabell
(1781〜1858年)ドイツの作曲家。少年時代を聖歌隊で過ごし、修道僧になった後、音楽家に転向、ピアノ曲やオペレッタを数多く作った。また音楽出版社も作り、特にシューベルトの曲を多く出版した。
ディッタースドルフオーストリア:K.D.vDittesrbdorf
(1739〜1799年)オーストリアの作曲家。ハイドンやモーツアルトなどと同時代のヴァイオリニストとして知られていて、交響曲はじめ多種多様の作品を残している。
パウル・アブラハム・デュカ(フランス:Paul Abraham Dukas
パリ生まれ(1865〜1935)。フランスの作曲家。パリ国立音楽院に学ぶ。セザール・フランクの影響を受け、ベートーベンの堅固な構成を学び、また、繊細なフランス風の感覚を作品に盛っている。代表作は管弦楽曲の序曲「リア王」、交響詩「魔法使いの弟子」、「ハ長調交響曲」、ピアノ曲の「変ホ長調ピアノソナタ」、歌劇「アリアーヌと青ひげ」、舞踏曲「ラ・ペリ」等。
ヘンリー・デュパルク(フランス:Henri Duparc
パリ生まれ(1848〜1933)。フランスの作曲家。高等中学でピアノの教師だったセザール・フランクの影響で音楽の道へ目を開かせた。その後法律を学びながら作曲を勉強し、当時のすべての音楽運動に加わり、国民音楽協会創立者の一人となった。40歳の頃不治の病に罹り、初めスイス、次にピレネーに隠退した。作品としては数曲の管弦楽曲と18曲の歌曲を残しただけだが、すべてが傑作で、フランス高踏派の詩に作曲したものが多く、「悲しき歌」や「旅へのいざない」などは不朽の名作である。それらは言葉を持つ交響詩と呼んでよい。
マレー・オーガスト・デュラン?:Maree August Durand
(1830〜1909年)。Durand&Fil's 出版社の創始者で、1880年頃まで教会のオルガニスト兼作曲家として活躍した。
ルイ・デュレー(Louis Durey
フランス生まれ。(1888-1979)。フランス6人組の一人。第一次世界大戦と共に発展し始めた、ロマン派と印象派に背を向けた若い作曲家達、フランス6人組の一人。
フレデリック・デリアス(イギリス:Frederick Delius
ブラッドフォード生まれ(1862〜1934)。ドイツ系イギリスの作曲家。ライプチヒ音楽院に学び、ワーグナーとグリークから大きな影響を受けた。1890年以後パリ郊外で孤独の生活を送り創作に打ち込んだ。作風はきわめて個性的であるが、しばしば絵画的なイメージを音楽で表現しようとする印象派的傾向を示した。代表作には歌劇「村のロメオとジュリエット」、管弦楽曲「ブリッグの市」、「春を告げるかっこうをきいて」等。
マリオ・デル・モナコ(イタリア:Mario Del Monaco
フィレンツェ生まれ(1915〜82)。イタリアのテノール歌手。ペザロで音楽と美術を学んだ。1941年のデビュー以来 “黄金のトランペット” といわれる鋭く力強い声と劇的な熱演はカルーソー以来最高のテノール歌手との評判が高く、世界中の歌劇場で人気を集めた。「オテロ」、「道化師」など劇的なものを得意とする。
ゲオルグ・フィリップ・テレマン(ドイツ:Georg Philipp Telemann
マグデブルク生まれ(1681〜1767)。ドイツの作曲家。後期バロック・バッハと同世代。ライプチヒ大学で法律を学び、のちに音楽家となった。バッハとも親交があったが、古い音楽に根ざすバッハとは違い、当時の音楽趣味に適応した数多くの作品によって、生前はバッハ以上の人気を得た。非常な多作家であることと、魅力的な作風のために、よく “ドイツのヴィヴァルディ” といわれる。代表作は管弦楽曲「食卓の音楽」、歌劇「ピンピノーネ」等。
アントン・ドヴォルザーク(チェコ:Antonin Dovorak
(1841〜1904)。チェコの作曲家。スメタナと並ぶチェコ国民楽派の巨匠。はじめプラハのレストランでヴィオラを演奏していたが、1962〜73年プラハの仮設チェコ国民歌劇場管弦楽団のヴィオラ奏者となる。1866年この劇場の指揮者になったスメタナの影響を受け、民族主義的な傾向に目覚める。1873年作曲家として自立してブラームスに認められ、次第に名背が高まる。1878年の「スラブ舞曲」第一集の成功で国際的に知られるようになり、1884年イギリス、ロシア、アメリカに招かれて活躍した。1891年ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られた。アメリカ滞在中(1892〜95)、インディアンや黒人の音楽に興味を示し、それ等を研究して交響曲第9番「新世界から」、弦楽四重奏曲「アメリカ」、チェロ協奏曲などエキゾチックな名作を完成した。1901年オーストリー終身上院議員に任じられた。作風は旋律の豊かさと緊密な構成力を特色とし、交響曲、協奏曲、室内楽曲、歌曲などを得意とした。
アルトゥーロ・トスカニーニ(イタリア:Arturo Toscanini
イタリア・パルマ生まれ(1867〜1957)。イタリアの指揮者・チェロ奏者。フルトベングラーと共に20世紀前半を代表する名演奏家の一人。パルマ音楽院でチェロと作曲を学び、南米に渡りブラジルのリオデジャネイロの歌劇場管弦楽団に在籍中、19歳で偶然ヴェルディの「アイーダ」を指揮することになり、それが成功して指揮者に転じた。以後イタリア各地で活躍、1898年にミラノ・スカラ座の音楽監督に就任、1908年アメリカでデビューした。1927〜30年ニューヨーク・フィルハーモニーの常任指揮者、1937年に彼のために設立されたNBC交響楽団の指揮者に就任し、1954年引退するまで多くの名演奏を行って世界的な名声を確立した。イタリア歌劇を得意としたほか、厳格な合奏能力ときびきびとしたテンポを生かしたベートーベンの曲目の演奏に定評があった。ドイツ音楽に、ドイツ系指揮者が従来みせなかった新しい解釈を持ち込んだ功績は大きい。
フランシスコ・パオロ・トスティ(イタリア:Francesco Paolo Tosti
イタリア・オルトーナ生まれ(1846j〜1916)。イタリアの歌曲作曲家。ナポリの王立音楽院に学ぶ。歌曲の作曲で認められ、ローマに出た後1875年ロンドンを訪問し独唱会を開いた。1880年からロンドンに居住し王家の声楽教師、1894年から王立音楽院声楽教授となった。1894年ローマに戻りこの地で没した。声楽に精通した彼の歌曲には旋律美に溢れ叙情的な小曲には今も世界的に親しまれている秀作が多い。「理想」、「夢」、「セレナータ」、「マレキアーレ」等が有名。
ガエターノ・ドニゼッティ(イタリア:Gaetano Donizeti
ベルガモ生まれ(1794〜1848年)。イタリアの作曲家。19世紀前半のベルカント・オペラの代表的として名高くまたオペラ・ブッファ様式を整えた最後の作曲家である。1830年に発表した「アンナ・ボレーナ」で成功を収め、ロンドンやパリ、ヴィーンでも上演され、国際的な名声を博した。
クロード・アシル・ドビュッシー(フランス:Claude Achille Debussy
パリ郊外サンジェルマンアンレー生まれ(1862〜1918)。フランスの作曲家・印象派音楽の創始者。11歳でパリ音楽院に入学、アントワーヌ・フランソワマルモンテル、アルベール・ラビニャックらに学んだが、あまり理解されなかった。1881年、ロシアに旅行してモデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキーの音楽を発見した。1884年に「道楽息子」でローマ賞を得てイタリアに留学するが、ローマ賞受賞者に義務づけられた留学作品として作った「選ばれし乙女」、「春」なども理解されなかった。1894年に「牧神の午後への前奏曲」を発表し、広く世の注目を集めた。象徴派の詩人、印象派の画家、ムソルグスキーの音楽の影響のもとに印象派音楽を創始し、従来の調性音楽の観念を捨て新しい音楽の道を開いた。作品は、管弦楽曲「夜想曲」、「海」、ピアノ曲「子供の領分」、「前奏曲集」、他多数の歌曲等。
エルノー・ドホナニー(ハンガリー:Erno Dohnany
ブレスブルグ生まれ(1877〜1960年)ハンガリーのピアニスト・作曲家。8歳の頃からピアノを学び、のちブダペスト音楽院でピアノと作曲を学ぶ。20〜31歳くらいまでピアニストとして活躍、のちベルリン高等音楽院教授、ブダペスト音楽院長、ハンガリー放送局総監督などを歴任、1949年以来アメリカ・フロリダ州立大学でピアノと作曲を教えた。作品は後期ロマン派の影響を強く受けた民族主義的な傾向を持つ。
チャールズ・ルイス・アンブロワーズ・トーマス(フランス:Charles Louis Ambroise Thomas
モーゼル湖畔のメッツ生まれ(1811〜96)。フランスの作曲家。父から音楽を学び、パリの音楽院でルシュウールに作曲を学びローマ賞を受賞。パリで作曲活動を行い、1851年にパリ音楽院の教授に就任、のち同楽院長となった。多数の歌劇。喜歌劇を作曲し、なかでも「カイド」、「ミニョン」、「ハムレット」は大成功を収めた。正歌劇と喜歌劇とを合わせて新しい様式を作ったのが彼の特色である。
プラシド・ドミンゴ(スペイン:Placido Domingo
(1941〜)。スペインのテノール歌手。スペインの民族オペラ、サルスエラ歌手から1961年にオペラに転じ現代を代表する歌手の一人。レパートリーは幅広くヴェルディからワーグナー、フランス作品までこなし、更に指揮者としても有能とされている。
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ナ行
ナカタ ヨシナオ(日本:中田 喜直)
(1923〜2000)。日本の作曲家。東京音楽学校(現東京芸術大学)卒業。親しみやすく、情緒豊かな作品で、戦後の声楽界に大きな足跡を残した。童謡や歌曲など歌の曲が有名だがピアノ曲なども残している。主要作品は「夏の思い出」、「雪の降る街を」、「ちいさい秋みつけた」等。
ランソワ・ジョゼフ・ナデルマン(フランス:Francois Joseph Naderman
パリ生まれ(1781〜1835)。フランスのハーピスト・作曲家・ハープ製作家。有名なハーピストであったハープ音楽家のクルンプホルツの教えを受け、オペラ座でオーケストラのメンバーとなった。1816年には宮廷室内ハープ奏者に任じられ、肩書きには“王立室内楽団作曲家”とある。更に1825年にはパリ音楽院教授の他にハープ製作家であった父親の後を、兄のアンリ・ナデルマンと共に引き継いでいる。
アルトゥール・ニキシェ(ハンガリー:Artur Nikisch
ハンガリー生まれ(1855〜1922)。指揮者・ヴァイオリニスト。世界的な大指揮者である。機能的な大交響楽団の完全なコントロールを目的とする20世紀の指揮法の先駆者となった歴史的存在。ヴァイオリニストとして世に出たが、1878年ライプチヒで指揮者としてデビュー、以後、ボストン交響楽団、ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を歴任、それぞれの楽壇を一流の存在に育て上げた。ベートーベン演奏に定評があり、長く、ドイツ・オーストリー系の指揮者の模範とされた。
カール・オットー・エーレンフリート・ニコライ(ドイツ:Carl Otto Ehrenfried Nicolai
ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)生まれ(1810〜49)。ドイツの作曲家・指揮者。ベルリンで学び、ナポリとローマに留学して歌劇作曲法を修得した。1841年ウィーン宮廷歌劇場の指揮者となり、在任中、現在のウィーン・フィルハーモヒー管弦楽団を創始した。1847年ベルリン王立歌劇場指揮者に転じ、1849年に代表作である歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を完成し初演したが、その2ヶ月後に急死した。
オーレル・ニコレ(スイス:Aulele Nicoret
(1926〜)。スイスのフルート奏者。チューリヒでA.ジョネに、パリでM.モイーズの教えを受けた。チューリヒ・トーンハレ管弦楽団、ヴィンタートゥール管弦楽団の首席を経て1950〜59年にはベルリン・フィルの首席を勤めた。バッハ作品を得意とするが、同時に現代作品にも大きな関心を持ち、武満徹作品の世界初演も行っている。
カール・オーギュスト・ニールセン(デンマーク:Carl August Nielsen
フュン島オーデンセ近郊生まれ(1865〜1931)。デンマークの作曲家・指揮者。コペンハーゲン音楽院でゲーゼに学んだ。のちには同音楽院の院長を勤め、北欧ではグリーグに次ぐ作曲家として認められている。オペラ「仮面舞踏会」はデンマークの国民オペラの創始とされている。作品は6曲の交響曲の他、オペラ、協奏曲、歌曲等が多い。
ビルギット・ニールソン(スエーデン:Birgit Nilsson
スエーデンのソプラノ歌手。ストックホルムの王立音楽学校で学び、1944年にデビューした。1950年代からバイロイト音楽祭に出演して「ローエングリン」のエルザ、「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデ、「ニュルンベルクの指環」のブリュンヒルデなどで成功を収めている。ドラマチックな役柄の多くで模範的な名演を残した、20世紀最高のワーグナー歌手である。
ジョアン・ネストロイ(オーストリー:Johann Nestroy
ウィーン生まれ(1801〜62)。オーストリーの喜劇作家・俳優・歌手。法律を学んだが歌手となり、モーツアルトの「魔笛」に出演、カール劇場を管理した。ロマン的なライムント(作家)から写実的なアンツェングルーバー(作家)に移行する時代のオーストリー通俗劇の代表者で、悪霊ルンパチバガブンドス」など80編を越すその戯曲は、せりふの軽妙さによって当時のウィーン市民から熱狂的に迎えられた。のちに、カールクラウスは彼を言葉の大魔術師、すぐれた風俗描写家、ドイツ最大の風刺作家として再発見した。
ジェシー・ノーマン(アメリカ:Jessye Norman
オーガスタ生まれ(1945〜)・アメリカのソプラノ歌手。1969年にミュンヘン国際コンクールで優勝し、ベルリン・ドイツオペラの専属となって「アイーダ」でデビューした。以後世界各地の歌劇場や音楽祭に出演している、時代を代表する歌手である。幅広い音域と声質をもち、あらゆる作品を歌いこなすが、特に内面的な情感をたたえた作品の表現力は比類無いものである。


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