クラシック音楽人名辞典 ハ行

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フェルディナンド・バイエル(ドイツ:Ferdinand Beyer
(1803〜63)。ドイツの作曲家・音楽教育家。室内楽、ピアノ曲など作品は多いが、今日では「バイエル教則本」の著者として名をとどめるにすぎない。(※バイエル教則本=おとなの独習用に作られたといわれている)
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(オーストリー:Franz Joseph Haydn
オーストリー・ローラウ生まれ(1732〜1809)。オーストリーの作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲の育成に大きく貢献すると共に、ウィーン古典派の創始者となった大作曲家。音楽好きの大工の長男として生まれ、8歳から16歳頃にかけてウィーンの聖シュテファン大聖堂で合唱隊員を勤めたのち独学で作曲家への道を切り開いていく。27歳の時ボヘミアの貴族モルツィン伯爵の楽長となるが、優れた音楽的才能は貴族達の注目を集め、1761年にはアイゼンシュタットに居城を持つ大貴族エステルハージ侯爵家の副楽長に抜擢される。侯爵家の歴代の君主には熱烈な音楽愛好家が多く、優れたオーケストラを含む充実した音楽隊が常備されており、ハイドンが楽長に就任する1766年には400人を収容出来るオペラ劇場と人形劇場を備えた新しい離宮が建設されるなど、華やかな宮廷芸術が営まれていた。ハイドンは30数年間4代の君主に仕えた。人里離れた館で作曲活動を続けてにも関わらず、ハイドンの名はヨーロッパ各地に広がり、数多くの作曲依頼が寄せられた。一般に注文に応じて作曲する18世紀後半の古典派時代を生き抜いたハイドンは32種にものぼる当時のあらゆる楽種に作品を残していて、現存する交響曲だけでも106曲を数える。莫大な作品には、バロックの対位法手法と前古典派の単純明快な和声的書法を総合しながら、古典派と呼ばれるにふさわしい独自の充実した音楽様式が築きあげられていった歩みが克明に物語られている。主な作品は、12曲の「ザロモン交響曲」(驚愕、軍隊、時計等)、「戦時のミサ曲」など6つのミサ曲、二大オラトリオ「天地創造」と「四季」等。
ヤッシャ・ハイフェッツ(ソ連:Jascha Heifetz
ソ連・ビルニウス生まれ(1901〜87)。アメリカのヴァイオリニスト。のちにアメリカに帰化した20世紀前半の代表的な名演奏家の一人。ペテルブルグ音楽院でレオポルド・アウアーにに学び、10歳の時ペテルブルグでデビュー、12歳の時ベルリンでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演して神童といわれた。革命後アメリカに渡り、1925年に帰化。独奏とレコード録音を活発に行いオーストリーのフリッツ・クライスラー以後の最大のヴァイオリニストと評価された。ハイフェッツの出現でヴァイオリンの演奏技巧の水準が一段と高められたが、反面技巧に走りすぎて表現がやや単調になったという批判もある。
ルチアノ・パヴァロッティ(イタリア:Luciano Pavarotti
イタリア・モデナ生まれ(1935〜)。A.ポーラとE.カンボリアーニの教えを受け、1961年にレッジョ・エミーリアのコンクールで優勝、直後にマントヴァの歌劇場にデビューした。歌劇「ボエーム」のロドルフォ、「リゴレット」のマントヴァ侯爵などイタリア・オペラのリリック・テノールとして圧倒的な人気を誇っている。“最高音のC(ド)」でも有名。
ニコロ・パガニーニ(イタリア:Niccolo Paganini
ジェノバ生まれ(1782〜1840)。イタリアのヴァイオリニスト・作曲家。19世紀の名演奏家時代の先駆けとなった超人的名手。少年時代、数人の教師に短期間師事したが、すぐに師をしのぎ、以後、奏法を自ら工夫、表現力に富んだ画期的な奏法を身につけた。11歳でデビュー、17歳以後、北イタリアを中心に本格的な演奏活動にはいる。1828年以後、ベルリン、パリ、ウィーン、ロンドンなど国外で活躍し、想像を絶する名声と富を得た。その超人的技巧は、現存する3曲の「ヴァイオリン協奏曲」、無伴奏ヴァイオリンのための「24の奇想曲」などにみられる。「
フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(ドイツ:Frederick William Helschel
ドイツ・ハノーバー生まれ(1738〜1822)。イギリスの音楽家・天文学者。ドイツで音楽活動をしていたが、1757年イギリスに渡り、音楽活動の余暇に天文学を研究して天文学者となった特異な経歴を持っている。1779年以来、掃天観測を開始し、1781年の天王星の発見を契機として天文家に転じた。土星の衛星・重星・連星・星雲・星団の発見、太陽運動、恒星界の構造の研究で知られ、また、大反射望遠鏡制作者としても有名。
エットーレ・バスティアニーニ(イタリア:Ettore Bastianini
(1922〜67)。イタリアのバリトン歌手。1945年にバス歌手としてデビュー、1951年バリトンに転じて「椿姫」のジェルニモで大成功を収めた。スカラ座、メトロポリタン歌劇場、コヴェント・ガーデン王立歌劇場などで活躍、ふくよかながらも陰のある声質で一世を風靡した。名バリトンの絶頂期での急逝が惜しまれる。
テクラ・バダジェフスカ(ポーランド:Tekla Badarzewska
(1834〜1861)。ポーランドの女流ピアニスト。生涯は不明だが、35曲のサロン作品を書いたとされる。有名な「乙女の祈り」は18歳の時の作品で、1859年パリの音楽雑誌「レビュー・エ・ガゼット・ミュジカーレ」の付録としてつけられたところ、雑誌はたちまち売り切れ、増刷を重ねた。ラジオもレコードも無かった当時ピアノの家庭普及はめざましく、アマチュアも弾きこなせるサロン・ピースへの需要がかつてなく高まったという背景のもと、技術が容易な割に演奏効果があり甘美なタイトルを持つこの曲は一世を風靡した。「乙女の祈り」の応答篇「かなえられた祈り」は序奏は「乙女の祈り」よりも複雑で長くドラマティックな演奏効果がある。
アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(アルメニア:Aram Il’yich Khachaturian
グルジア生まれ(1903〜78)。アルメニアの作曲家。19歳からモスクワで学び、カフカス地方の民族音楽を題材にしたエネルギッシュで躍動感に満ちた作品が多い。プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチと共にソ連時代を担った。主要作品は組曲「仮面舞踏会」、ヴァイオリン協奏曲、バレエ「ガイーヌ」(剣の舞)等。
ヨハン・セバスチャン・バッハ(ドイツ:Johann Sebastian Bach
アイゼナハ生まれ(1685〜1750)。18世紀前半のドイツ・バロック音楽の頂点に立つドイツの史上最大の音楽家。バッハ家は代々数多くの音楽家を輩出した有名な家系だった。8歳の時ラテン語学校に入学したが、9歳の時母を、10歳の時父を失い、オルガニストだった長兄のヨハン・クリストフに引き取られた。この兄に教えられて本格的に音楽の勉強を始めた。この頃、長兄の教えてくれる教材では満足出来ず、無断で兄の楽譜を月明かりで写したと伝えられる。1700年、リューネブルクに旅立ち、そこのミカエル学校の給費生になった。1703年以降、バッハは音楽家として活動を始める。故郷のチューリンゲン地方に戻ってワイマール宮廷に仕えていたが、すぐにアルンシュタットの新教会のオルガニストに任命された。1707年までこの職にとどまっていたが、この間北ドイツ・オルガン芸術の研究に没頭した。1707年にミュールハウゼンのオルガニストとなり、翌年にはワイマールの宮廷楽士兼オルガニストとなった。1708〜17年、バッハの名声は高まるばかりであった。1714年、ワイマール宮廷楽壇のコンサート・マスターとなり、定期的に「カンタータ」を作曲するようになり、この頃既にオルガン曲の殆どが書かれていた。一方、イタリア音楽、特にアントニオ・ヴィヴァルディらの協奏曲や弦音楽の研究の時期でもあり、その研究の成果が次のケーテン時代の豊かな創作となって現れる。ケーテンの宮廷楽長を勤めた1717〜23年の間に、今日に残る殆どの室内楽曲と管弦楽曲とクラヴィア曲が生まれた。1723年にライプチヒの聖トーマス教会付属学校の合唱長となり死ぬまでその職にとどまった。主な作品は約200曲の「カンタータ」、数曲の「モテット」、「ミサ曲」、「ヨハネ受難曲」、「マタイ受難曲」、「クリスマス・オラトリオ」、「「トッカータとフーガ」、「パッサカリア」、クラヴィーア曲に「平均率クラヴィーア曲集」、「インヴェンション」、「フランス組曲」、「イギリス組曲」、「イタリア協奏曲」、「ゴールドベルク変奏曲」、室内楽曲に「ブランデンブルク協奏曲」、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」、「無伴奏チェロ組曲」、その他「音楽の捧げ物」、「フーガの技法」等。
イグナツィ・ヤン・パデレフスキー(ポーランド:Ignacy Jan Paderewski
ウクライナのクルィウォフカ生まれ(1860〜1941)・ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家。20世紀を代表する名ピアニストの一人。ワルシャワ音楽院卒業後、ベルリン、ウィーンで勉強を重ね1883年パリでデビュー。豪壮で繊細な表現力の的確な使い分けにより、たちまち世界的な成功を収めた。第一次世界大戦時にはポーランド独立のために努め、ワシントン駐在ポーランド大使に就任し、戦後ポーランド共和国初代首相に選ばれた。1923年辞任後再び演奏活動に戻ったが、第二次世界大戦に巻き込まれた祖国救済演奏活動を行ううちアメリカで客死した。単なるピアニストの枠を越えたスケールの大きい人物であった。作品ではピアノ曲「メヌエット」が特に有名である。
トマス・ハムリー・バトラー(イギリス:Thomas Hamly Butler
ロンドン生まれ(1755〜1823)。イギリスの作曲家。幼少から宮廷礼拝堂少年合唱隊員として音楽教育を受けたが、変声期のあと、イタリアに赴いて有名なオペラ作家ニコロ・ピッチーニについて作曲を学んでいる。3年間のイタリア滞在後帰国して、ドゥルリー・レイン劇場座付作曲家となった。やがてこの職を辞してエディンバラに移り住み音楽教師として活躍している。劇音楽家・ピアノ作曲家としても名高かった。
はやしやすこ(日本: 康子)
香川県生まれ(1943〜)。日本のソプラノ歌手。東京芸術大学大学院オペラ科終了後ミラノで研鑽を重ね、数々の国際声楽コンクールで上位入賞を果たした。1971年ミラノのピッコラ・スカラ座でイタリアデビューし、翌年にはスカラ座に「蝶々夫人」でデビューした。その後はスカラ座を中心にリリコ・スピントとして世界の大舞台に出演している日本を代表するイタリア・オペラのプリマドンナである。
ミリー・アレクセエヴィッチ・バラキレフ(ロシア:Milliy Alekseevich Balalorev
ニジニノブゴロド(ゴーリキー)生まれ(1837〜1910)。ロシアの国民楽派の作曲家・指揮者・ピアニスト。カザン大学に学んだのちペテルブルグ(レニングラード)に出た。1850年代の終わりにキュイ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ボロディンと「力強い一団」(五人組)」を組織し、その後指導者として大きな影響を与えた。1862年にはルビンシュテインらの音楽院に対抗して無料音楽学校を開設した。作品は交響曲、歌曲、ピアノ曲、民謡集などがあるが、ピアノ曲「イスラメイ」は特に有名。
マリア・テレジア・フォン・パラディス(オーストリー:Maria Theresia Paradis
ウィーン生まれ(1759〜1824)。女流演奏家・作曲家。ウィーンの宮廷顧問官を父に持ち、4歳で失明したが、名付け親のマリア・テレジア女帝の後援で高度な音楽教育を受け、演奏家・作曲家として活躍した。1783年〜86年にかけてヨーロッパ各国を広く演奏旅行したのち、晩年はウィーンに音楽学校を開いた。モーツアルトとの交流でも知られ、彼のピアノ協奏曲第18番K.456はパラディスに検定された作品といわれる。
ベーラ・バルトーク(ハンガリー:Bela Bartok
ナジセントミクロージュ生まれ(1881〜1945)。ハンガリーの作曲家。1899年ブダペストの王立音楽院に入学。ハンガリー国民音楽の完成を考えていた彼は1905年頃から同窓のコダーイと共に、農村に伝わっているマジャール古民謡を採譜・研究し、それを創作の素材とした。1940年、ナチスを逃れてアメリカに亡命したが、1945年に貧困と白血病によりニューヨークで死亡した。作品はその作風から二期に分けられる。第一期はリヒャルト・シュトラウスやシェーンベルクの影響から同化の時代で
「アレグロ・バルバロ」、「舞踏組曲」等。第二期は、第一期の発展、民族的素材の現代手法への消化・吸収の時代で「第5弦楽四重奏曲」、「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」、「2台のピアノと打楽器のソナタ」等の傑作を生んだ。
ジョヴァンニ・ピエルイジ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)
パレストリーナ生まれ(1525頃〜1594)。本名はG.ピエル・ルイジで、パレストリーナは出身地の名前。ルネサンス後期を代表するイタリアの作曲家。ローマ楽派の巨匠。ローマのサン・ピエトロ大聖堂など多くの大聖堂の楽長を歴任し、ミサやモテットなどの宗教音楽作品で「パレストリーナ様式」と呼ばれる古典的対位法を確立させた。現存する作品数は850程で大半が宗教作品。主な作品は「教皇マルチェルスのミサ」、モテット「谷川を慕いて」、「パビロン河のほとりに」等。
レナード・バーンスタイン(アメリカ:Leonard Berstern
(1918〜90)。アメリカの作曲家・ピアニスト。ハーバード大学卒業後、カーティス音楽院で学んだ。25歳の時にニューヨーク・フィルの副指揮者となり、1958〜69年には同楽団の首席を勤め黄金時代を気づいた。コンサート指揮者として、また作曲家、ピアニストとして多彩な活動を展開、20世紀後半の指揮界をカラヤンと二分した大音楽家である。作品にはミュージカル「ウェストサイド物語」等がある。
グレゴール・ピアティゴルスキー(ロシア:Gregor Piatigorski
エカチェリノスラフ(ドニエプロペトロフスク)生まれ(1903〜76)。ロシアのチェリスト。後アメリカに帰化。モスクワ音楽院を卒業、ドイツに留学中フルトベングラーに抜擢され名を知られるようになった。1929年渡米、以来市民権を得てアメリカに定住した。ソリストとして活躍する一方ルビンシュテイン、ハイフェッツと組んだピアノ・トリオは「百万ドルトリオ」と呼ばれて世界的な人気を博した。情緒的な奏法に独自の境地を示している。
ヘンリー・ロウレイ・ビショップ(イギリス:Henry Rowley Bishop
ロンドン生まれ(1786〜1855)。イギリスのオペラ歌手・作曲家・指揮者。コヴェント・ガーデン劇場、フィルハーモニー協会、王立劇場などの指揮者、エジンバラ、オックスフォード両大学の教授を歴任1842年音楽家として初めてナイトに叙せられた。劇音楽・歌曲などに多くの美しい作品を残したが、なかでも歌劇「クラーリ」の中の「ホーム・スィート・ホーム(日本題埴生の宿)」、シェークスピアの詩による「みよ、やさしいヒバリを」は広く愛唱されている。
ゲオルグ・ビゼー(フランス:Georges Bizer
パリ生まれ(1838〜75)。フランスの作曲家。パリ音楽院に学び、シャルル・グノーらの影響を受けた。在学中から優れた才能を発揮、「交響曲第1番」(1855)のような佳作を残している。ローマ大賞を得てローマに留学、1860年夏に帰国。1863年依頼によって作曲したオペラ「真珠採り」がエクトル・ベルリオーズに賞賛され、オペラ作曲家として進む決心を固めた。以後「美しいバースの娘」(1866)、「ジャミレー」(1871)を発表したが真珠採りのような成功を得ることは出来なかった。1872年、アルフォンス・ドーデの戯曲「アルルの女」のために書いた付随音楽で好評を博した。1873年に着手した「カルメン」は翌年完成、1875年パリで初演されたが、3ヶ月後に健康を害して早世。この「カルメン」で19世紀のフランス・オペラの最も重要な作曲家として歴史に名をとどめるに至った。鮮やかな劇的効果と色彩的な管弦楽法で、当時のフランス・オペラ作曲家達をはるかに越えた境地に達しており、後のイタリア・ベルズモ・オペラに影響を及ぼした。
トーマス・ビーチャム(イギリス:Thomas Beecham
セントヘレンズ生まれ(1879〜1961)。イギリスの指揮者。音楽好きな富豪の息子として生まれ恵まれた環境の元でアマチュア指揮者として経験を積み、1910年本格的なポストを得て楽界に進出した。1932年ロンドン・フィル・ハーモニーを、1946年ロンドン・フィル・ハーモニーを組織しロンドンの楽界に新風を注ぎこんだ。指揮の技巧はアマチュアを脱しきれない弱点を持っていたが、音楽に対する純粋で飽くことのない情熱が聴取を打ち、絶大な人気を得た。
パウル・ヒンデミット(:ドイツ:Paul Hindemith
ハナウ生まれ(1895〜1963)。ドイツの作曲家。1909年、フランクフルト・アム・マイン高等音楽学校に入学、ゼクレルに作曲を、レープナーにヴァイオリンを学んだ。1915〜23年フランクフルト管弦楽団の第1コンサートマスターとして活躍し、1921年頃から各地の現代音楽祭を通じて作品の発表を始め、反ロマン主義的な作風で注目された。1934年の歌劇「画家マチス」(交響曲じも編曲された)を頂点として、ナチスによる追放後、作品は折衷主義に変化していった。1939年、アメリカに亡命、エール大学の教授を勤め、1951年ヨーロッパに戻り、1963年スイスで死亡した。代表作は「画家マチス」の他、歌劇「気高き幻想「、歌曲「マリアの生涯」、無伴奏ヴィオラ・ソナタなどがある。また、著書として「作曲の手引き」、「伝統的和声楽」がある。
マヌエル・デ・ファリャ(スペイン:Manuel de Falla
カジス生まれ(1876〜1946)。ピアニストだった母にピアノを学んだが、成長するにつれて作曲に興味を持ち、スペイン国民音楽の祖といわれるフェリペ・ペドレルに師事、その影響で民族主義的な創作活動を目指すに至った。1905年、オペラ「はかない人生」がマドリード芸術院設定の国民歌劇場第1位に選ばれて有名になった。1907〜14年、パリに滞在。帰国後発表した舞踏劇「恋いは魔術師」(1915)、交響的印象「スペインの庭の夜」(1915)、でスペインの南国的情趣の音楽化に成功、世界的に知られることになった。セルゲイ・ディアギレフの依頼で書かれたバレエ音楽「三角帽子」(1919)も、管弦楽法の妙を発揮した名作である。1939年、フランコ政権とそりが合わずアルゼンチンに移住、同地で没した。20世紀スペイン国民音楽の最大の功労者としてきわだった存在である。
エドウィン・フィッシャー(スイス:Edwin Fischer
(1886〜1960)。スイスのピアニスト。バーゼルとベルリンの音楽院で学ぶ。師M・クラウゼ譲りのドイツの伝統的な奏法を受け継ぎ、バッハからドイツ・ロマン派作品までをレパートリーにした20世紀前半を代表するピアニスト。知的な解釈と情熱的な演奏は、以後のピアニストの模範とされている。ルツォルン音楽祭の創始者の一人。
ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウ(ドイツ:Dietrich Fischer-Dieskau
ベルリン生まれ(1925〜)。ドイツのパリトン歌手。ベルリン音楽大学で声楽を学び、兵役に服したのち戦後デビュー。1948年ベルリン市立歌劇場に出演したのをきっかけに、ヨーロッパ各地でドイツおよびイタリア歌劇を歌い、レパートリーの広さと共に緻密な表現力と正確な技法で知られた。また、リート歌手として最高の実力を持ち、特にシューベルト、シューマン、ヴォルフ歌曲は歴史に残る水準に達している。
ジョン・フィールド(アイルランド:John Field
ダブリン生まれ(1782〜1837)。アイルランドのピアニスト・作曲家。ノクターンの創始者。ロンドンでクレメンティに学び、大陸各地で名演奏家として成功を収めたのち、ペテルブルク(レニングラード)に定住して教鞭をとった。1833年イタリア演奏旅行中に倒れロシアに戻って死去した。ノクターンはショパンの作品の先駆者として音楽史上重要である。作品は協奏曲7、ノクターン20、他多数のピアノ曲等。
エマヌエル・フォイアマン(オーストリー:Emanuel Feueumann
ウクライナ生まれ(1902〜42)。オーストリー→アメリカのチェリスト。ウィーンとライプチヒで学んだのちオーケストラ奏者を経て1929年にベルリン音楽大学教授に就任、同時にベルリン・フィルのソリストも勤めた。1938年にアメリカに移った。フーベルマンとゴールドベルク、また、ハイフェッツとルビンシュタインとのトリオでも有名。
スティーヴン・コリンズ・フォスター(アメリカ:Stephan Collins Foster
(1826〜64)。アメリカの作曲家・作詞家。ミュージカル・しょーの座付き作曲家として、民謡に根ざした親しみやすい作品を数多く残した。主要作品は、「おおスザンナ」、「草競馬」、「故郷の人々」、「オールド・ブラック・ジョー」等。
ガブリエル・ユルバン・フォーレ(フランス:Gabriel-Urbain Faure
パミエ生まれ(1845〜1924)。フランスの作曲家。パリにある私立のニーデルメイエ音楽学校に学び、師であったサン・サーンスから多くの影響を受けた。1865年卒業したが、同年作曲された多くの歌曲の中で最も有名な「夢のあとに」は、近代的な叙情主義者的としてのフォーレの本質をはっきり示している。1866年以後、教会オルガニストとして生計を立てながら「ヴァイオリン・ソナタ第1番」(1876)、「ピアノ四重奏曲第1番」(1879)、ピアノと管弦楽のための「バラード」(1881)、「レクイエム」(1887)などを発表、洗練されたフランス的叙情により名を高めた。1896年、パリ音楽院作曲家教授となり、モーリス・ラベルをはじめ多くの作曲家を育成、1905年音楽学院長となり1920年に辞任した。晩年のフォーレは聴覚を失うが、その中で書かれた名作に「ヴァイオリン・ソナタ第2番」(1917)、歌曲集「幻想の水平線」などがある。アカデミックな規則によらず、自己の感性に忠実な音楽を書き続けた先駆者である。
ふじかわまゆみ(日本:藤川 真弓)
北海道旭川出身(1946〜)。日本のヴァイオリニスト。桐朋学園で学んだのちベルギーのフラマン国立音楽学校でF・ビジーに師事、1970年ヴユータン・コンクールで優勝、チャイコフスキー国際コンクールで第2位となった。その後フィラデルフィア管弦楽団、ロンドン交響楽団、シカゴ交響楽団など欧米の一流オーケストラと共演。ロンドンを本拠に世界的な活躍をしている。
アドルフ・ゲオルグ・ウィリアム・ブッシュ(ドイツ:Adolf Georg Wilhelm Busch
ジーゲン生まれ(1891〜1952)。ドイツのヴァイオリニスト・室内楽奏者・指揮者。1919年に組織したブッシュ弦楽四重奏団は、20世紀前半ドイツが生んだ最高の団体とされ、特にベートーベン演奏に定評があった。指揮者としても活躍した。1933年アメリカに移住して、その地で没した。兄フリッツも音楽家で、指揮者として一流の名声を得た。
ジャコモ・プッチーニ(イタリア:Giacomo Puccini
ルッカ生まれ(1858〜1924)。1880年にミラノ王立音楽院に入学、ポンキェリらに師事した。1884年歌劇の処女作「ビリ」、1893年には、プレボーの恋愛小説に取材した第3作「マノン・レスコー」をトリノで初演し大成功を収めた。1896年「ラ・ボエーム」、1900年「トスカ」、1904年「蝶々夫人」の3作を初演した。1907年アメリカに渡り、1910年「西部の娘」をメトロポリタン歌劇場で初演し、1918年には同劇場で「外套」、「修道女アンジェリカ」、「ジャンニ・スキッキ」を発表した。その他、中国を舞台にした「トゥーランドット」があるが、未完のまま1924年没。「トゥーランドット」はイタリアの作曲家アルファーノの手で完成、1926年スカラ座で初演された。プッチーニは人情豊かな題材を選び、慎重に台本を練り、音楽は独特の優美哀麗な旋律を持ち、歌は感情に満ち、人物描写は写実的であって、管弦楽には次々と新手法を効果的に採用している。また、地方色をよく生かし、情緒や雰囲気を与え、鋭い劇場感覚で見事な舞台効果を生んでいる。
ヘルマン・プライ(ドイツ:Hermann Prey
(1929〜98)。ドイツのバリトン歌手。少年合唱団、ベルリン音楽大学を経て1952年にヘッセン歌劇場でデビュー、1953年ハンブルク国立歌劇場に出演した。その後はウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、ミラノのスカラ座、コヴェント・ガーデン王立歌劇場、他ベルリン、ケルン、ミュンヘンなどの国立歌劇場に出演している。バリトンには珍しい明るく甘い性質と巧妙な演技でフィッシャー・ディスカウと人気を二分した。
アレクサンダー・ブライロフスキー(ロシア:Alexander Brailowsky
キエフ生まれ(1896〜1976)。ロシアのピアニスト。ウィーンで学び、1919年パリでデビュー、ショパン弾きとしてヨーロッパ、アメリカで名声を獲得した。その間アメリカに帰化した。19世紀風なスタイルをとどめているが、詩情豊かなさわやかな即興的性格は古さを感じさせない。
ヨハネス・ブラームス(ドイツ:Johannes Brahms
ハンブルク生まれ(1833〜97)。ドイツの作曲家。コントラバス奏者を父に持ち、7歳の時から本格的にピアノを学んだ。1853年に友人のヨアヒムの紹介でデュッセルドルフにシューマンを訪問し才能を認められた。シューマン夫人クララとはそれ以後晩年まで交流があった。デトモントの侯爵家で音楽教師を勤めたあと、1862年9月にウィーンに出て翌年9月にはウィーン・ジンクアカデニーの指揮者に就任した。1872年秋から1874年4月までウィーン楽友会の芸術監督になった。それ以外には生涯定職には就かなかったが、主として指揮の演奏活動が多くなったので、創作は夏にウィーンを離れて避暑地で行うことにした。1889年から体力が衰えたとし大作の創作を辞めていたが、クラリネットの名手ミュールフェルトを知り、またこの楽器を用いた室内楽曲を書き始めた。1896年3月26日にクララが卒中で倒れてから、その心配と自分の死の予感から「聖書による四つの厳粛な歌」を作曲した。クララの死後ブラームスは次第に衰弱していったが、1896年夏に「11のコラー前奏曲」をやっと書き上げ、1897年4月3日死去した。
セザール・オーギュスト・フランク(ベルギー:C’sar Auguste Frank
ベルギー・リェージュ生まれ(1822〜90)。ベルギーの作曲家・オルガニスト。のちフランスに帰化。リェージュ音楽院、パリ音楽院卒。教会オルガニストとして生計を立てながら当時のパリの楽壇の主流を占めていた歌劇音楽に背を向け、構成を重んじる器楽曲の創作で独自の世界を開いた。ただし作曲家としては正当に評価されず、オルガン奏者としての名声はとみに上がり、1872年パリ音楽院オルガン科教授に就任した。この頃から円熟期を迎え、「ピアノ五重奏曲ヘ短調」(1879)、ピアノの為の「前奏曲コラールとフーガ」(1884)、「ヴァイオリン・ソナタイ長調」(1886)、ピアノと弦楽のための「交響変奏曲」(1885)、「交響曲ニ短調」(1888)、弦楽四重奏曲ニ長調」(1889)などの傑作が書かれた。ヴァイオリン・ソナタや交響曲で見せた構成上の工夫はのちに「循環形式」と呼ばれ多くの追随者を持つことになった。フランクの作風と人柄を慕って集まってきた弟子達にダンディー、ショーソン、デュパルクらがあり、彼らは“フランキスト(フランク派)”と呼ばれ、大きな影響力を持つに至った。
フランシス・ジャン・マルセル・プーランク(フランス:Fracis Jean Marcel Puolenc
パリ生まれ(1899〜1963)。フランスの作曲家。ピアノをピニェスに、作曲をケクランに学び、職業音楽家となる。オネゲル、ミョーらと共に「六人組」の一人。はじめエリック・サティの影響を受け、風刺の効いた皮肉な作風で知られたが、のち、平明で気がきいていて適度に新鮮みのある独自の作風を生み出した。代表作にオペラ「ティレシアスの乳房」(1947)、「人間の声」(1958)、バレエ音楽「牝鹿」(1923)がある。
リリー・ブランジェ(フランス:Lili Boulanger
パリ生まれ(1893〜1918)。フランスの女流作曲家。姉のナディアがローマ大賞2等賞を獲得したあと自分もこの賞への挑戦を決意、1913年に19歳でローマ大賞一等賞に輝きローマに留学した。生来の病弱体質のため留学中に体調を崩して帰国、2年後の再留学も病魔に邪魔され、1918年、未完の大作オペラ「マレーネ姫」に心を残しながら24歳の早世した。姉ナディアは作曲の名教授として多くの作曲家を育成すると同時に、リリーの作品の普及に努め、1979年92歳で永眠した。
サムソン・フランソア(アフランス:Samson Francois
ドイツ・フランクフルト生まれ(1924〜70)。フランスのピアニスト。コルトーとマルグリット・ロンに師事し、1943年ロン・ティボー国際コンクール第1位を獲得、1945年以来活発な演奏活動を行う。個性的な、やや誇張したショパンを聴かせた他、ラヴェル、プロコフィエフを得意とした。
エドワード・ベンジャミン・ブリテン(イギリス:Edward Benjamin Britten
ザフォーク州生まれ(1913〜76)。現代イギリスの代表的作曲家・ピアニスト・指揮者。5歳で作曲に興味を持ち13歳から正式な勉強を始め、ロンドン王立音楽学校に学んだ。1937年「フランク・ブリッッジの主題による変奏曲」で国際的な注目を集めた。第二次世界大戦直後、歌劇「ピーターグライムス」によって絶賛を博し、以後「ルクリーシャの陵辱」、「ネジの回転」、「夏の夜の夢」などを発表、イギリス音楽の伝統を継承しつつ、現代的な感覚を示す独特の作風を確立した。代表作は他に「戦争レクイエム」、青少年のための管弦楽入門、シンプルシンフォニー等。
ヨハン・フリードリッヒ・ブルグミュラー(ドイツ:Johann Friedrich Burgmuller
レーゲンスグルク生まれ(1806〜1874)。ドイツの作曲家。有名な音楽一家の出身。26歳頃からフランスに出てピアノ作曲家・教育者として活躍し、フロトーなど当時の有名な作曲家と親交を持ちながら恵まれた生活を送ったともいわれる。作風は、上品で、軽快、優しい雰囲気に溢れている。作品は、「25のやさしい練習曲集」が最も有名だが、「「12の華麗で旋律的な練習曲集」、「18番練習曲集」等。ピアノの効果を巧みに生かした、自然な音楽的流れを特徴とし、好感の持たれる作品が多い。
ジョセフ・アントン・ブルックナー(オールトリー:Josef Anton Bruckner
アンスフェルデン生まれ(1824〜96)。オーストリーの作曲家・オルガニスト。学校教師の父に生まれ、教会の少年聖歌隊に入り、教会付属の学校でオルガンを学んだ。1845年からザンクト・フローリアン修道院の助手に就任し、1856年リンツ大聖堂、ウィーン宮廷のオルガニストを歴任。敬虔なカトリック信者で、宗教的オルガン曲を作曲したあと、ワーグナーに心酔して交響曲作家となる。1876年からはウィーン大学で教鞭をとった。オルガン的な響きを持つオーケストラ作品が特長。13年間オルガニストを勤めたリンツ大聖堂に埋葬された。主要作品は交響曲第4番「ロマンティック」、第7番、第9番で・デウム等。
マックス・ブルッフ(ドイツ:Max Bruch
ケルン生まれ(1838〜1920)。ドイツの作曲家。歌手だった母に最初の音楽教育を受け作曲家を志望した。1865年以降ドイツおよびイギリスで指揮者として活躍しつつ創作活動を行い「ヴァイオリン協奏曲」、「コル・ニドライ」で名声を博確立した。1893年ケンブリッジ大学名誉音楽博士、1908年ベルリン大学神学・哲学博士となる。作風はドイツ・ロマン派の豊かな叙情性を生かしているが、20世紀の新しい音楽にはなじまず、過渡期の作曲家である。
ウィルヘルム・フルトヴェングラー(ドイツ:Wilhelm Fuftwangler
ベルリン生まれ(1886〜1954)。ドイツの指揮者。トスカニーニと共に20世紀前半を代表する名指揮者。1915年29歳の時マンハイムでオペラと演奏会を指揮して認められ、1922年名指揮者ニキシュの後任として名門ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団常任指揮者となりドイツにおける地位を決定的にした。以後指揮者としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場、バイロイト音楽祭など、最も重要なポストを歴任した。あらゆる作品をこなしたが、特にベートーベン、ブラームス、ブルックナー、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスにみせた力強い表現と感情移入の的確さは19世紀の大指揮者達の伝統の上に独自の個性を開花させた成果として絶賛された。
ピエール・フルニエ(フランス:Pierre Fournier
パリ生まれ(1377〜1446)。フランスのチェリスト。パリ音楽院に学ぶ。1924年にデビューしてパリで活躍した。1934年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と協演、その気品ある音と解釈で世界的な大指揮者フルトヴェングラーに認められ、ヨーロッパ一流のソリストになった。ときに技巧的な固さを感じさせることはあるが、微妙なニュアンスに富んだ表現力は傑出している。
デニス・ブレイン(イギリス:Dennis Brain
(1921〜57)。イギリスのホルン奏者。祖父、父共に名ホルン奏者。ロンドンの王立音楽院で学んだ。17歳の時にオーケストラで父と並んで吹いた。戦争中は空軍軍楽隊に在籍、戦後にロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の首席を勤め、同時にソロや室内楽でも活躍した。ブリテン、ヒンデミットが彼の為に作品を書いている。
アンドレ・プレヴィン(アメリカ:Andre Previn
ベルリン生まれ(1929〜)。アメリカの指揮者。ベルリンとパリで学び、1939年にロサンジェルスに移る。アレンジャー、ジャズピアニストとして活躍したのちに1963年に指揮者としてデビュー。ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・フィルなどの音楽監督を歴任、各地のオーケストラに客演して、自然な流れの中から限りない感情を呼び起こす演奏をする名指揮者である。
ピエール・ブーレーズ(フランス:Peirre Boulez
(1925〜)。フランスの作曲家・指揮者。20世紀前半の前衛音楽を主導。「抽象的印象派」とも呼ばれ、独特の感覚による繊細で緻密な音響の世界を持つ指揮者として著名。IRCAM(音響学・音楽共同研究所)の初代所長。主要作品は「ル・マルトー・サン・メートル」、「マデルナ追悼のためのリチュエル」、「二重の影の対話」等。
ジローラモ・フレスコバルディー(イタリア:Girolamo Frescobalde
フェラーラ生まれ(1583〜1643)。17世紀初頭の器楽を代表するイタリアの音楽家。オルガン音楽の分野で重要な地位を占め、16世紀オルガン音楽の頂点を極めると共に、弟子ヨハン・ヤーコブ・フローベルガーを通じて、バロック・オルガン音楽の源流をなした人として知られる。100年後に登場したバッハでさえ、彼の音楽を研究した。
ミヒャエル・プレトリウス(ドイツ:Michael Praetorius
チューリンゲン生まれ(1571〜1621)。ルター派の牧師の子に生まれ、ドイツ各地でオルガン奏者として活躍、1604年以降、没するまでボルフェンビュッテル宮廷楽長を勤めた。17世紀初頭のイタリア音楽の技法を取り入れコラールの発展に寄与、プロテスタント教会音楽に貢献した。3巻からなる音楽辞典「音楽大全」は貴重な理論書として知られている。
アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel
(1931〜)。オーストリアのピアニスト。チェコで生まれ育ち、グラーツ音楽院で学んだ。1949年にE・フッシャーの講習会で大きな影響を受けた。はじめはウィーンを中心に、1960年からはロンドンを本拠に活動して、モーツアルトとシューベルトの演奏で好評を得た。地味で着実な活動が後年になった結実した現代の巨匠である。
セルゲイ・セルゲーヴィッチ・プロコフィエフ(ロシア:Sergey Sergeevich Prokof’ev
エカチェリノスラフ県ソンツォフカ村生まれ(1891〜1953)。ソ連の作曲家。幼児から音楽的才能を現し5歳で作曲を始めたといわれる。11〜12歳の時グリュエールに作曲の個人指導を受けている。1904年、13歳でペテルブルグ音楽院に入学し、リャードフに作曲、エシポワにピアノ、チェレブニンに指揮を学んだ。革命後の1918年に日本を通ってアメリカへ亡命したが、1932年にソ連に復帰した。ソ連復帰後は社会主義リアリズムの線に沿って分かりやすい叙情的な音楽を書いた。初期の作品では「スキタイ組曲」、「古典交響曲」、歌劇「三つのオレンジへの恋」等。ソ連復帰後では「第5交響曲」、「第7交響曲」、バレエ音楽「ロミオとジュリエット」、「シンデレラ」、映画音楽「キージェ中尉」、「アレクサンドル・ネフスキー」、歌劇「戦争と平和」、子供のための交響的物語「ピーターと狼」等が特に有名である。
アーネスト・ブロッホ(スイス:Eanest Bloch
ジュネーヴ出身(1880〜1959)。スイスのユダヤ人作曲家。のちアメリカに帰化。ブリュッセル、フランクフルトの音楽院で作曲を学ぶ。30代になってユダヤ民族的特色を明確に打ち出した作品を多く発表、チェロと管弦楽のための狂詩曲「シェロモ」はその代表作とされる。1916年の渡米はユダヤ系作曲家に多くの影響を及ぼした。精緻な作曲技法で知られる。
フリードリッヒ・フォン・フロトー(ドイツ:Friedrich Flotow
トイテンドルフ生まれ(1812〜83)。パリで音楽を学ぶ。1837年劇音楽を発表してデビュー。1847年の歌劇「マルタ」の成功でオペラ作曲家としての地位を確立し、以後自作上演の為西欧各地を旅行した。作風は旋律美を特色とするが、劇的迫力を欠き感傷的に過ぎるのが弱点とされている。
ヨハン・ヤコブフローベルガー(ドイツ:Johann Jakob Froberger
シュトゥットガルト生まれ(1616〜67)。ドイツの音楽家。主にウィーンで活躍した。ローマのジェロラーモ・フレスコバルディに師事し、さらにはヨーロッパ各地を旅行したことによって、独自の作風を気づいたが、なかでもクラヴィア組曲の発展に重要な貢献をした。
ヨハン・ネポムク・フンメル(ハンガリー:Johann Nepomuk Hummel
バウレスブルク生まれ(1778〜1837)。ハンガリーのピアニスト・作曲家・指揮者。モーツアルトに認められ、少年時代にその教えを受けた。1787年以来ヨーロッパ各地に演奏旅行、また指揮者としても活躍、1819年ワイマール宮廷楽長に就任した。優れた作曲技法を駆使して多くの作品を書き、生存中はベートーベンと比べられる程だったが、演奏効果の追求に重点を置きすぎたため、後世では内容の乏しさを指摘され、忘れられつつある。
ルードヴィッヒ・フォンベートーベン(ドイツ:Ludwig van Beethoven
ボン生まれ(1770〜1827)。祖父はボンでケルン選帝侯宮廷楽長を勤め父ヨハンも宮廷楽団の歌手だった。父はルードヴィッヒの才能に着目し、4歳の時から無理ともいえる音楽教育を強要し、7歳の時ピアノ演奏会を開かせた。1781年クリスティファン・ゴットロープ・ネフェに作曲を学び、1784年には宮廷オルガニストに就任。1785年ブロイニング家のピアノ教師となり、未亡人らから文学・ラテン語・礼儀作法などさまざまな教えを受け、ボン社交界の名士にも紹介された。1792年にハイドンに会いウィーン留学を決意、ウィーンではハイドン、サリエリに作曲を学び作曲技法の基礎を固めた。1795年ウィーンで最初の公開大演奏会に出演して、ピアニストとしての名声が高まり、特に即興演奏の妙技で人気を博した。1800年には「交響曲第1番」、6曲の「弦楽四重奏曲」(第1〜6)を発表、創作活動に広がりをみせ、リヒノフスキー侯から年金を受けた。この数年前から耳を患い一時生命の危機に陥るが回復、その後の創作意欲はとみに激しくなり「ヴァイオリン・ソナタ第9番」、「クロイツエル」、交響曲第3番「英雄」など画期的な作品を数多く生み出す。作風は、熱狂と劇的表現を特色とした。代表的作品は前記の他、唯一の歌劇「フィデリオ」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、「ヴァイオリン協奏曲」、3曲の「ラズモフスキー弦楽四重奏曲」、「チェロソタナ第3番」他「月光」、「ワルドシュタイン」、「悲愴」など多数のピアノ曲等がある。
アルトゥーロ・ベネデッティー-ミケランジェリ(Artuto Benedetti-Michelangeri
(1920〜)。イタリアのピアニスト。ミラノ音楽院出身。1939年ジュネーヴ国際コンクールで第1位を獲得。第二次世界大戦後1946年ヨーロッパの特異な新進として広く注目され、名声が次第に高まった。レコード録音を嫌うため広い人気は得ていないが、ピアノの響きをバランス良く清澄にまとめあげる特殊な感覚を持ち、かつ非常なまでに作品を分析的に演奏する特異な様式を身につけている。
ルンスト・ヘフリガー(スイス:Ernst Haefliger
(1919〜)。スイスのテノール歌手。チューリッヒ、ウィーン、ジュネーヴで学び、1942年にコンサートデビュー、翌年にオペラデビューをした。1952年からベルリン・ドイツオペラの専属となり、20世紀後半のドイツ・テノールを代表する歌手。モーツアルトのオペラとマタイ受難曲のエヴァンゲリストを得意とした。
カール・ベーム(オーストリー:Karl Bohm
グラーツ生まれ(1894〜1981)。オーストリーの指揮者。ヘルベルト・ヴォン・カラヤンと共に現代最高の指揮者といわれる。グラーツの音楽院出身。グラーツの歌劇場を降り出しにミュンヘン国立歌劇場、ドレスデン国立歌劇場で指揮者を勤め、のちウィーン国立歌劇場総監督となる。モーツアルト、ベートーベン、ブルックナーの曲の演奏は19世紀風の伝統を感じさせる雄渾なもので他の追随を許さない。
ヴィンツェンツォ・ペリーニ(イタリア:Vincenzo Bellini
シチリア島のカタニア生まれ(1801〜36)。イタリアのオペラ作家。父はオルガニストだった。ナポリの音楽院卒業。ジンガレルリらに学ぶ。1827年スカラ座で「海賊」を初演し、パリでも上演した。1831年「夢遊病の女」、「ノルマ」をミラノで発表して名声を得、1834年、パリで「清教徒」を発表後、パリで病死した。19世紀前半のイタリアオペラの代表的作曲家の一人で、清純優美な旋律は伝統に則し、華麗なコロラトゥーラの技巧を要するものが多く、それと劇的内容とが相まって、作品は魅力的でロマン的情緒に溢れている。
フランツ・ベール(ドイツ:Hrannz Behr
(1837〜1898)。ドイツのピアニスト・作曲家。エステンより少し後の時代にドイツで活躍したが、子供のためのピアノ曲の他にはあまり知られていない。しかし、子供向きの曲はディアベリやエステンの作品同様、ピアノレスナーに親しまれている。作品はピアノ曲「水の精」、「ポルカ・マズルカ」、「ジプシーの群れ」等。
アルバン・ベルク(オーストリー:Alban Berg
ウィーン生まれ(1885〜1935)。オーストリーの作曲家。シェーンベルク楽派の一人。ウィーンの書籍業者の家に生まれ、独学で歌曲などの作曲等を始め、1905年シェーンベルクに師事した。調性による作品、無調的作品、十二音技法による作品とシェーンベルクと同じ過程を辿るが、いずれも後期ロマン派風の叙情に満ちた作品といえる。特に二つのオペラ「ウォツェック」と「ルル」は20世紀最大のオペラとして知られる。
ジョヴァンニ・バチスタ・ペルゴレージ(イタリア:Giovanni Battista Pergolesi
イエーシ生まれ(1710〜36)。イタリアの作曲家。荘重なバロック音楽様式から簡潔・明快な古典派様式への転換期に活躍した短命な天才的作曲家。ナポリで学び、オペラおよび宗教音楽の作曲家として21歳でデビュー、1733年に発表した幕間劇「奥様になった女中」が好評で、のちのオペラ・ブッファ(滑稽歌劇)に影響を及ぼした。1735年胸を病んで修道院に引き籠もり「悲しみの聖母」完成直後世を去った。声部処理のあざやかさ、旋律美に傑出した才能を示した。
ルイス・エクトル・ベルリオーズ(フランスHector Berlioz
(1803〜69)。フランスの作曲家。初め医学を専攻したが、22歳の時音楽に転じてパリ音楽院に入学、1830年ローマ大賞を得てローマに留学。留学に先立ち一代の名作「幻想交響曲」を発表(1830)、独創性に富み、既に完成した音楽家であることを示した。「ある芸術家の生涯のエピソード」という副題を持つこの曲は、自身の失恋の体験を音楽に託して表白した作品であり“標題交響曲」と呼ばれる新しいジャンルの開拓に先鞭をつけただけでなく、交響詩を生み出すきっかけにもなった歴史的作品である。ローマ留学中「幻想交響曲」の続編「レリオー生への帰還」を書いた彼は、帰国後、ピオラ独奏付きの交響曲「イタリアのハロルド」(1834)を発表、標題音楽の発展に努めた。以後の重要作に「レクイエム」(1837)、オペラ「ベンベヌート・チェルリーニ」(1838)、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」(1893)、序曲「ローマの謝肉祭」(1844)、「ファウストの劫罰」(1846)、オペラ「トロイ人」(1859)があり、フランス・ロマン派最大の巨匠として精力的な活動を行ったが、フランス楽壇からは正当に評価されず、指揮者としてしばしば国外に演奏旅行し、名声を得た。「近代楽器法と管弦楽法」の著書がある。
ビンチェンツォ・ベルリーニ(イタリア:Vincenzo Bellini
(1801〜35)。イタリアのオペラ作曲家。、、メロディーの美しさでは屈指といわれベルカント・オペラの頂点に立つ。国内だけでなくロンドンやパリでも大成功を収めたが34歳の若さで死去した。代表作はオペラ「清教徒」、「ノルマ」、「夢遊病の女」、他にオーボエ協奏曲等。
ウラド・ペルルミュテール(フランス:Vlado Perlemuter)
リトアニア生まれ(1904〜)。フランスのピアニスト。13歳からパリ音楽院でモシュコフスキーとコルトーに学び、またラヴェルからも直接の指導を受けた。演奏活動をしながら、パリ音楽院の教授として多くの弟子を育成している。最も正当なラヴェル演奏の継承者である。
ファニー・メンデルスゾーン・ヘンゼル(Fanny Mendelssohn-Hensel
ハンブルク生まれ(1805〜1847)。ドイツの女流作曲家。有名なフェリックス・メンデルスゾーンの姉。裕福なユダヤ人銀行家の娘として生まれ、幼少から英才教育を受けて、4歳年下の弟と共に卓越した楽才を発揮したが、当時の上流市民層の通念として長らく作品出版を「認められなかった。画家ヘンゼルと結婚後、実家の豪邸の音楽ホールで日曜音楽会を主催し、詩的な音楽活動を展開した。40歳で初めて自作だけによる作品集の出版を実現させ、作品2〜「6を世に送ったのち間もなく早世した。約500曲と推定される作品の大半は歌曲だが、2曲のピアノ・ソナタ、3曲の室内楽作品の他、大作のオラトリオ「聖書の物語」もある。
ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデル(ドイツ:Georg Friedrich Handel
中部ドイツのハレ生まれ(1685〜1759)。ドイツの大作曲家でバッハと並ぶバロック音楽の巨匠。幼い時から非凡な才能を現した。ハレ大学で法律をを学んだのち、1703年ハンブルク・オペラのバイオリニスト、のちにハープシコード奏者となり、カイザーやブクステフーデの作風に私淑して四つのオペラと「ヨハネ受難曲」を書いた。1706年イタリアにおもむき、ローマを中心に各地で活躍、「ロドリゴ」、「アグリッピアナ」の二つの作品によってイタリア・オペラの作曲家として成功を収めた。また鍵盤楽器音楽や合奏音楽の分野でスカルラッティ、コレルリから大きな影響を受けた。1710年ハノーバー選帝侯の宮廷楽長として帰国したが、まもなくオペラ上演のためにロンドンに渡り、1712年上演渡英の際オペラの成功と、アン王女から宮廷作曲家の地位と年金を与えられたことに気を良くしてイギリスに定住した。ロンドンでのヘンデルはイタリア・オペラの作曲と上演に精力を集中し「ジュリアス・シーザー」、「アルチーナ」などの傑作を発表したが、反対派との競争や経済的負担に悩まされ、さらに英語で市民生活感情を表現したゲイの「乞食オペラ」(1728)の出現によって決定的な大打撃を受け、1741年の「デイダミア」を最後にオペラの作曲を断念、創作の主力をオラトリオと世俗的合唱曲に移し、この分野で「エジプトのイスラエル人」、「マカベウスのユダ」などの20曲余の優れた作品を書いた。その中で最も有名なのは1741年作のオラトリオ、救世主「メサイア」である。器楽作品では「水上の音楽」、「王宮の花火」、合奏協奏曲、オルガン協奏曲等が知られている、。ヘンデルの音楽は中部ドイツのプロテスタント音楽の伝統に根ざしているが、ドイツ対位法音楽の技法にイタリアのベルカントの旋律性、イギリス合唱音楽の手法など、さまざまの要素を加え、国際的な幅の広い作風を示した。
ジャン・クロード・ペンティエ(フランス:Jean Claude Pennetier
ヴィエンヌ地方シャテルロー生まれ(1942〜)。フランスのピアニスト。3歳の頃からピアノとソルフェージュの勉強を始めたが、素晴らしい才能は歳とともに更に発揮され、10歳の時には公開の演奏をした。パリ音楽院に入学、この間ソルフェージュ・ピアノ・室内楽・アナリーゼでそれぞれ第1位の賞をとり、パリ音楽院始まって以来といっても過言ではない成績をあげた。後にピアニストとしてデビューした時「モーツアルトの再来」と評価された。しかしその後5年間音楽院に残り、トニー。オーバンに作曲を、マニュエル・ロザンタール、ジョルジュ・ティピーヌ、ヴォリス・ヴィノグラドフに指揮法を学び、楽檀にデビューしようとはしなかった。ペンティエが注目されはじめたのは、多くのコンクール、ガブリエル・フォーレコンクール第1位、ロン・ティボー・コンクール第2位、モントリオール音楽コンクールでグランプリ、ジュネーヴ国際コンクールで第1位等で次々と賞をとり始めてからだった。しかし、コンサート・ピアニストとして名を売るよりも、現代音楽を広めることに興味をもって地道な活動をしている。
クスシュトフペンデレッキー(ポーランド:Krzysztof Penderecki
1933〜)。ポーランドの作曲家・指揮者。18歳からバイオリンを学び、クラカウ音楽院でマラウスキとビエコビッツに師事。卒業と同時に母校で後進の指導を行い1972年から院長に就任。1959年、ポーランドの青年作曲家コンクールに出した3作品が1・2位を独占し、一躍国際的にしられるようになった。多作であるが、中でも「弦楽四重奏曲」、「ヒロシマの犠牲者への哀歌」は有名である。他に「ルカ受難曲」、「ディエス・イレ」等。
コール・ポーター(アメリカ:Cole Porter
インディアナ州生まれ(1890〜?)。アメリカの歌曲作曲家。富豪の家に生まれたが、その起伏の多い一生は伝記映画「夜も昼も」で克明に描かれている。生活・性格を反映してか、彼の作品には気品溢れるものが多い。
ルイージ・ボッケリーニ(イタリア:Luigi Boccherini
ルッカ生まれ(1743〜1805)。イタリアの作曲家・チェリスト。父に音楽を学び、14歳でローマへ修行に出、一時ルッカに帰ったのち、演奏旅行に出て、北イタリア、ウィーン、パリを巡演した。1769年スペイン王子に招かれてマドリードに定住した。王子の没後はスペイン宮廷や外国の宮廷や高官にも仕えたが、終生スペインにどとまり、貧窮のうちに他界した。作品はウィーン古典派とは違った独自のイタリア古典様式を示す。
ハンス・ホッター(ドイツ:Hans Hotter
オフェンバハ生まれ(1909〜)。ドイツのバス・バリトン歌手。ミュンヘン音楽院でオルガンを学びのち歌手に転向。1938年ミュンヘン国立歌劇場に出演して地位を固め、第二次世界大戦後欧米各地で名声が高まった。モーツアルトやワーグナーのオペラ、オラトリオ、他ドイツ歌曲の第一人者として知られ、歌曲解釈者としても有名である。
エルンスト・アマデウス・ホフマン(ドイツ:Ernst Amadeus Hoffman
ケーニヒスベルク(カリーニングラード)生まれ(1776〜1822)。ドイツの法律家・小説家・音楽家。後期ロマン派の代表的作家。ケーニヒスベルクの大学で法律を学んで判事となり、生涯を司法官として送る。かたわら文学と音楽に傾倒、小説家としては「カロー風の幻想画集」(1814)、「金の壺」(1814)、「悪魔の妙薬」(1815)等があり、音楽家としては指揮者・作曲家・批評家として活躍、ロマン的多才ぶりの典型というべき存在となった。「ホフマンの舟歌」が有名。
ハインツ・ホリガー(スイス:Heinz Holliger) 
(1939〜)。スイスのオーボエ奏者・作曲家。ベルンとパリで学び、1959〜64念バーゼル・フィルの首席を勤めた。この間ジュネーヴ(1959)、ミュンヘン(1961)両国際コンクールで優勝。1964年フライブルク音楽大学の教授に就任、傍らソロと室内楽演奏家として活動している。多くの新しい奏法を考案した史上最高のオーボエ奏者として名高い。
マウリッツィオ・ポリーニ(イタリア:Maurizio Pollini
ミラノ生まれ(1942〜)。イタリアのピアニスト。5歳からピアノを始め、ミラノの音楽院で学び、14歳の時にジュネーヴ・コンクールで第2位となる。18歳でショパン・コンクールで優勝。その後も研鑽を重ねて1970年28歳の時に本格的な活動を再開、時代を代表する名演奏家としての評価を確立させた。ショパンに関する限りポリーニは最高であり、極めて繊細なショパンの詩情の見事な表現力は他の追随を許さない。
グスターヴ・ホルスト(イギリス:Gustav Holst
(1874〜1934)。イギリスの作曲家。セント・ポール女学校の音楽教師、ロイヤル音楽カレッジ、ハーヴァード大学で後進を指導、後期ロマン派風の作風でオペラ、室内楽、声楽と幅広く作曲したが、その中でも特に「組曲」「惑星」、「セント・ポール組曲」が有名。
ウラディミール・ホロヴィッツ(ロシア:Vladeimir Horowitz
キエフ生まれ(1904〜89)。ロシアのピアニスト、後アメリカに帰化。20世紀を代表する巨匠。12歳からキエフ音楽院で学び、18歳でデビュー。1925年に革命を避けてドイツに移り、ベルリン、1928年ニューヨークで、その超人的技巧で絶賛を博し「現代のリスト」と一部で評され、「若き巨匠」との評価を確立させた。1944年にアメリカに移った。青年時代の、テクニックを重視した過激な演奏から、次第に内面性を追求した豊かな音楽的な演奏へと変わっていった。レパートリーは異常な幅広さであるが、ショパン、シューマン、リストを得意とした。婦人はトスカニーニの娘。
アレクサンドル・ポルフィーリエヴィッチ・ボロディン(ロシア:Alexander Porfir’yevich Borodin
ペテルブルク(レニングラード)生まれ(1833〜87)。ロシアの科学者・作曲家。五人組の一人。ゲデアノフという貴族の私生児として生まれ、農奴ポルフィーリー・ボロディンのもとで育てられた。のちペテルブルク内科・外科アカデミー教授に就任。重責にあったので作品の数は少ない。オペラ「イーゴリー公」や三つの交響曲(勇者等)で大らかな民族叙事詩の精神をうたいあげた。室内楽や歌曲にも重要な作品がある。楽天的で叙情的な音楽は「五人組」の中でも特異な位置を占めている。作品は他に交響詩「中央アジアの高原にて」、弦楽四重奏等。(※歌劇「イーゴリー公」は、リムスキー・コルサコフとグラズノフが完成し1890年に初演)
アミルカーレ・ポンキェリ(イタリア:Amilcare Poncielli
コレモナ郊外パデルノ生まれ(1834〜86)。イタリアのオペラ作曲家。1856年初演の処女作「婚約者」がミラノで改訂上演され、ヴェルディの後継者として人気を得る。代表作は1876年ミラノ初演の「ジョコンダ」である。情熱的で劇的緊張感がある作風はイタリア的である。ミラノ音楽院でプッチーニやマスk−ニを教えた。(※ポンキエルリと訳したのもある)



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