クラシック音楽人名辞典 マ行・ヤ行

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ジャコモ・マイヤーベーア(トイツ:Giacomo Meyerbeer
ベルリン生まれ(1791〜1864)。ドイツの作曲家。富裕な銀行家の子に生まれ、神童ピアニストとして名をなす。1816年イタリアに行きオペラ作曲家として成功、1826年パリに移り、以後パリを中心に活躍した。「ユグノー教徒」(1836)、「予言者」(1843)、「アフリカの女」(1864)を発表、豪華絢爛たる舞台を作り出して、グランド・オペラの第一人者という名声を得た。
エドワード・アレクサンダー・マクダウェル(アメリカ:Edward Alexander MacDowell
ニューヨーク生まれ(1861〜1908)。パリとフランクフルトの音楽院で学び、フランツ・リストに認められてヨーロッパで活躍、帰国後コロンビア大学音楽学部長を勤めた。作風はドイツ・ロマン派の影響を示し、「ピアノ協奏曲第2番」、管弦楽曲「インディアン組曲」、ピアノ曲「森のスケッチ」などが有名。
ピエトロ・マスカーニ(イタリア:Pietro Mascagni
リボルノ生まれ(1863〜1945)。イタリアのオペラ作曲家。ミラノの音楽院でポンキェリに学び、中途退学して旅回りの歌劇団に加わる。1890年ローマ初演の「カバレリア・ルスチカーナ」で有名になる。その後はさして成功作はなく、第二次世界大戦後ファシストの協力者として全財産を没収され、ローマで死んだ。「カバレリア・ルスチカーナ」が最大の成功作であるが、その成功は同時代の作曲者に多大の影響を与え、1890年代のペリズモ・オペラの大流行をもたらし、レオン・カバルロと共にペリズモを代表する作曲家である。
ジュール・エミール・フレデリック・マスネー(フランス:Jules-Emile Frederic Massenet
(1842〜1912)。フランスの作曲家。パリ音楽院出身。21歳でローマ大賞を得て、ローマに留学。帰国後、あらゆる分野の作曲に手を染め、おびただしい作品を発表したが、今日残るのはオペラ「マノン」(1884)。「ウェルテル」(1893)、「タイース」(1894)等である。作風は歌曲「悲歌」に示されているように、叙情的な美しさを誇っているが、感傷に流れすぎて内面的な緊張に乏しいのが弱点とされる。パリ音楽院の教授として多くの弟子の育成に貢献した。
ロリン・マセール(アメリカ:Lorin Maazel
フランス生まれ(193〜)。アメリカの指揮者。生後すぐにピッツバーグに移る。ヴァイオリンと指揮を学び、少年時代からアメリカの一流オーケストラを指揮、神童といわれた。1951年イタリア留学中にデビュー。オペラではベルリン・ドイツ・オペラ、ウィーン国立歌劇場などに出演、コンサート、オーケストラではベルリン放送交響楽団、クリ−ヴランド管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、バイエルン放送交響楽団などの音楽監督を勤めた。きびきびした、力強くて正確な指揮ぶりは、新しいタイプの演奏を生み出しつつある。現代屈指の指揮者である。
まゆずみ としろう(日本: 敏郎)
横浜出身(1929〜97)。日本の作曲家。東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲家で学び、同大学院修了後パリ音楽院で学ぶ。日本で最初にミュージック・コンクレートや電子音楽を用いた作曲家で、他に日本の伝統音楽を取り入れるなど、作品は多種多様である。映画音楽も多数手がけ、また、巧みな話術でテレビ、ラジオなどの司会者としても活躍した。主な作品はオペラ「金閣寺」、「涅槃交響曲」、舞楽、独奏チェロのための「文楽」等。
グスタフ・マーラー(オーストリー:Gustav Mahler
ボヘミア・カリシュト生まれ(1860〜1911)。ウィーン音楽院を卒業後指揮者として次第に名をあげ、ブダペスト、ハンブルク、ウィーン、ニューヨークで活躍した。歌劇の指導に定評があり、また、同時代の作曲家の管弦楽曲も積極的に取り上げた。創作の面では歌曲と交響曲の大家ということができる。そして交響曲でも歌曲の精神が常に生かされており、且つ歌曲では管弦楽伴奏のものを書いた。時には厭世思想、絶望感あるいは孤独な感傷性といったものもおかれている。管弦楽の扱いは極めて巧妙で、大きな編成をとりながらも、むしろ清澄な効果さえ出す。後期ロマン派の最後を飾る作曲家である。代表作は「大地の歌」をはじめとする交響曲10曲、管弦楽伴奏の歌曲である「さすらう若者の歌」、「なき子をしのぶ歌」、「子供の不思議な角笛」等。
ギアン・フランセスコ・マリピエロ(イタリア:Gian Francesco Malipiero) 
ヴェネツィア生まれ(1882〜1973)。イタリアの作曲家。オペラ作曲家フランチェスコ・マリピエロの孫として生まれ、ヴェネツィア・ボローニャの音楽学校でエンリコ・ボッシに師事した。ロマン主義・印象主義の強い影響を受けて作曲を始め、第一世界大戦後は中世までもさかのぼるイタリア音楽、特にバロック、の伝統に立脚、数多くの分野にわたる作品を書いている。重要な教職を歴任し、モンテヴェルディやヴィヴァルディの研究でも知られる。
イゴール・マルケヴィチ(ロシア:Igor Markevich
ロシア生まれ(1912〜)。スイスの指揮者だい・作曲家。ロシアに生まれがのちにスイスに帰化した。作曲家としてデビューしたが、第二次世界大戦後はもっぱら指揮者として活躍。ヨーロッパ、アメリカの他ソ連でも人気を得た。色彩的にあざやかな演奏を聴かせる。近代・現代音楽、ロシア音楽を得意とする。
ジャンバティスタ・マルティーニ(イタリア:Giambattlista Martini
ボローニャ生まれ(1706〜84)。イタリアの音楽理論家・作曲家。パードレ・マルティーニ(父マルティーニの意)と親しまれた18世紀の対位法の大家。音楽を父やペルティに学び、聖堂の楽長になり、1729年僧籍に入る。ボローニャのアカデミア・フィラルモニコ指導者として全欧に有名で、グルックやモーツアルトも教えを受けた。「音楽史」3巻、「対位法譜例集」などの著書、宗教作品がある。
ボフスラフ・マルティヌー(チェコ:Bohuslav Martinu
(1890〜1959)。チェコの作曲家。プラハ音楽院でスーク、パリでルーセルに師事。1928年「第2弦楽四重奏曲」がシェナの世界音楽祭に入選、国際的活動が始まる。第二次世界大戦中はアメリカに亡命したが、戦後はチェコに帰って活躍した。作風は新古典的。リンドバーグにちなんだ管弦楽曲「大騒動」、トルストイによるオペラ「人は何で生きるか」などが代表作である。
ディミトリ・ミトロプーロス(ギリシャ:Dimitri Mitropopules
アテネ生まれ(1896〜1960)。ギリシャの指揮者、のちアメリカに帰化。アテネ音楽院出身。のちベルリンでフェルッチョ・ブゾーニに作曲とピアノを学ぶ。1936年渡米、1937〜49年ミネアポリス交響楽団、1949〜58年ニューヨークのフィル・ハーモニーの常任指揮者となる。また、メトロポリタン歌劇場やスカラ座でオペラの指揮も行った。鋭く正確な指揮で現代音楽に定評があった。その功績をたたえ、ミトロプーロス国際指揮者コンクールがアメリカで組織された。
みやぎ みちお(日本:宮城 道雄)
神戸生まれ(1894〜1956)。日本の箏曲家・作曲家。管国治郎の長男として生まれる。6歳で失明、8歳で2世中島検校に入門。2世の没後は3世に師事した。12歳で師匠の免状を得、13歳の時韓国インチョン在住の父のもとへ行った。明治42年(1919)16歳で処女作「水の変態」を作曲。翌年ソウルに移住。1913年結婚、妻の実家の宮城家を継ぐ。在韓中地歌の研究も行う。1917年23歳で上京、たびたび新作発表会を開き邦楽界よりも洋楽界から注目を浴びた。以後、尺八家吉田晴風とともに新日本音楽の名のもとに作曲・演奏・放送・レコーディングなど多方面で活躍した。1930年東京音楽学校(現東京芸術大学)講師、のち教授。1948年芸術院会員。1956年関西演奏旅行中列車から転落して死亡。「春の海」などが有名。
ダリウス・ミヨー(フランス:Darius Milhaud
(1892〜1974)。フランスの作曲家。六人組」の一人。パリ音楽院でポール・デュカス、バンサン・ダンディらに学んだ。第一次世界大戦後詩人コクトーの率いる「六人組」の一人として活躍した。作品はオペラ、交響曲、協奏曲から映画音楽まできわめて多く、作風も調的なもの、複調、多調によるもの、民族音楽を取り入れたものなど多彩である。ジャズを取り入れたバレエ音楽「世界の創造」、2台のピアノのための「スカラムーシュ」などが特に有名。
ナタン・ミルスタイン(ロシア:Nathan Milstein
オデッサ生まれ(1904〜1992)。ロシアのヴァイオリニスト。のちアメリカに帰化。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアーらに師事、1926年パリでデビューした。1929年アメリカで成功を収め同地に定住した。演奏スタイルは、毅然とした演奏様式を持ち、抑制の利いた表現で過度の叙情を廃し、新しい方向を示した。
モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー(ロシア:Modest Petrovich Musorgskiy
プスコフ県カレボ生まれ(1839〜81)。ロシアの官吏・作曲家。国民学派「五人組」の一人。幼時からピアノの才能を示したが、士官学校を出て軍人になった。ミーリー・アレクセイヴィッチ・バラキレフらと会ってから音楽に専念するために退役したが、音楽で生計を立てることは難しく、長く官吏を勤めた。「五人組」の主張を頑固なまでに守り通し、伝統を無視した音楽は、仲間からさえ認められるところが少なく、失意と赤貧のうちに死んだ。民謡とロシア語の抑揚に基づく感覚的な技法は、フランスの印象主義などを通して、むしろ現代音楽に繋がっている。オペラ「ボリス・ゴドノフ」、「ホバンシチナ」、交響詩「はげ山の一夜」、ピアノ曲「展覧会の絵」、歌曲集「こどもべや」、「死の歌と踊り」、「日の光もなく」、歌曲「のみの歌」、「ホパーク」、「神学生」など、普及の名作を残した。
エフゲニ・ムラヴィンスキー(ロシア:Evgeny Mravinsky
ペテルブルグ(レニングラード)生まれ(1903〜88)。ロシアの指揮者。レニングラード音楽院でマルコとガウクに学び、卒業後キーロフ劇場指揮者(1932〜28)を経て、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者に迎えられた。スターリン賞、レーニン賞を受賞し、人民芸術家の称号も与えられた。特にロシア音楽の解釈では世界一とされている。
オリヴィエ・ウジェーヌ・プロスペール・シャルル・メシアン(フランス:Olivier Prosper Charles Messiaen
アビニョン生まれ(1908〜1992)。作曲家・オルガニスト。11歳でパリ音楽院に入学、デュプレ、エマニュエル、デュカらに師事し、1930年抜群の成績で卒業。1931年パリのトリニテ教会オルガニストとなる。1936年アンドレ・ジョリペらと作曲家ブループ「若きフランス」を結成、ベルリオーズの美学への復帰を主張した。作風はドビュッシーの印象派の手法を受け継ぎ、「移調の限られた旋法」や「逆行不可能なリズム」など独自の語法を展開する。熱烈なカトリック信者で、作品の多くは宗教的題材を扱っている。代表作はオルガン曲「昇天」(1932)、ヴァイオリン・クラリネット・チェロ・ピアノのための「世の終わりのための四重奏曲」(1941)、ピアノ曲「みどりごキリストにそそぐ20のまなざし」(1944)等。
L.ホワイティング・メーソン(アメリカ:Luthur Whiting Mason
メーン州ターナー生まれ(1828〜96)。音楽教育家。アメリカの学校音楽教育の改革者で、日本の洋楽の基礎を築いた。殆ど独学で音楽を修めた。南部から1865年ボストンに移り、教育音楽に第一人者となった。1880年(明治13年)日本政府に招かれ、音楽取り調べ掛教師として、教科書編纂・伝習生の教育・宮内省の雅楽の伶人への洋楽の指導などを行い、勲四等に叙せられ、1882年に帰国した。以後ボストンに住み音楽教育の改善に尽くす。著書に「国民音楽教程」がある。
ユーディー・メニューイン(アメリカ:Yehudi Menuhin
ニューヨーク生まれ(1916〜99)。アメリカのヴァイオリニスト・指揮者。神童ぶりをうたわれ、7歳でサンフランシスコでデビュー、10歳代の前半で世界的な名声を確立した。11歳でカーネギーホールでベートーベンの協奏曲を弾いた。のちパリでジョルジュ・エネスコ、ドイツでアドルフ・ブッシュに師事、技巧にさえを加え名声を高めた。イギリスに定住、バース音楽祭を主催。後指導者として後進の指導にあたった。20世紀を代表する名演奏家である。
ジャン・カルロ・メノッティ(イタリア:Gian Carlo Menotti
イタリア・カディリアーノ生まれ(1911〜)。アメリカの作曲家。1923〜27年にミラノ音楽院で学び、1928年渡米しカーチス音楽院で学ぶ。現代的な題材を用いた歌劇「アメリア舞踏会へ行く」(1937)で成功を収め、それを含めて自作の台本による歌劇「どろぼうとオールド・ミス」、「冷媒」、「電話」、「領事」などを発表した。
ウィリアム・メンゲルベルク(オランダ:Willrm Mengelberg
ユトレヒト生まれ(1871〜1951)。オランダの指揮者。20世紀の名指揮者の一人。ドイツのケルン音楽院出身。1895年24歳でアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の2代目指揮者に就任。以後50年間にわたりこの楽団に在籍、世界一流の楽壇に育てると共に、みずからも大指揮者に成功した。この間、1921〜29年ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団も兼任した。バッハ、チャイコフスキー、マーラーを19世紀風に情緒・甘美に表現、特異な芸風をみせた。1945年、ナチスに協力したとの理由によって追放され、スイスに引退した。
ファニー・メンデルスゾーン・ヘンゼル(Fanny Mendelssohn-Hensel
ハンブルク生まれ(1805〜1847)。ドイツの女流作曲家。有名なフェリックス・メンデルスゾーンの姉。裕福なユダヤ人銀行家の娘として生まれ、幼少から英才教育を受けて、4歳年下の弟と共に卓越した楽才を発揮したが、当時の上流市民層の通念として長らく作品出版を「認められなかった。画家ヘンゼルと結婚後、実家の豪邸の音楽ホールで日曜音楽会を主催し、詩的な音楽活動を展開した。40歳で初めて自作だけによる作品集の出版を実現させ、作品2〜「6を世に送ったのち間もなく早世した。約500曲と推定される作品の大半は歌曲だが、2曲のピアノ・ソナタ、3曲の室内楽作品の他、大作のオラトリオ「聖書の物語」もある。
フェリックス・メンデルスゾーンバーソルディ(ドイツ:Felix Mendelssohn Bartholdy)
ハンブルク生まれ(1809〜47)。作曲家・指揮者。ドイツ初期ロマン派の音楽家。上記ファニー・メンデルスゾーン・ヘンゼルの弟。恵まれた理想的な教育を受けた。ベルリンでカール・フリードリッヒ・ツェルターに作曲を学び、その紹介で1821年ゲーテにワイマールで会い、以後ゲーテの知遇を得た。1826年17歳で「夏の夜の夢」序曲を作曲、既に完成した作風を示した。1829年ベルリンでバッハの「マタイ受難曲」の復活演奏を指揮、バッハ再評価のきっかけを作った。同年ロンドンで自作を指揮して好評を博し、以後9回イギリス演奏旅行をしている。1829年パガニーニ、1831年ベルリオーズ、リスト、1832年ショパン、1835年シューマンと会うが、彼らの作風になじまず、穏健な自己の作風を固持した。1835年ライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団指揮者になり、のちにこの楽団が世界一流になる基礎を築いた。代表作は他に「スコットランド交響曲」、「イタリア交響曲「、「ヴァイオリン協奏曲」、「フィンガルの洞窟」、「無言歌集」等。
マルセル・モイーズ(フランス:Marcel Moyse
(1889〜1984)。フランスのフルート奏者。パリ音楽院でタファネルとゴーベールの教えを受けた。パドルー管弦楽団、オペラ・コミック座管弦楽団、パリ音楽院管弦楽団(現パリ管)などの首席を歴任し、1932年から母校の主人教授を勤めた。フルートの近代奏法の確立者で、マールボロ音楽祭をはじめ世界各地で育成を行った。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト(オーストリー:Wolfgang Amadeus Mozart
ザルツブルク生まれ(1756〜91)。オーストリーの作曲家・ピアニスト。父レオポルド(ザルツブルグ大司教宮廷楽団のヴァイオリニスト)だった父に4歳から音楽を習い始め、ピアノ演奏の腕をめきめきとあげ、5歳の時には作曲もするようになった。6歳の時ミュンヘンとウィーンに演奏旅行をし、翌年一家でパリ、ロンドン、オランダへ大旅行をし、ロンドンでクリスチャン・バッハらの影響によって初めて交響曲を書いた。幼少から各地の作曲家の様式に接し、それを敏感に自分の作品に消化した。そのため、作風は時期によって次々と違ってきている。それにも関わらずその作風の基礎といえるものはあった。それは端正な構成と明快な書法である。旋律の性格は常にはっきりしていて、和声は鮮明である。その音楽は概して明るく微笑みを忘れずといった傾向を見せるが、その中に暗さや寂しさも対比的においているのがふつうである。ウィーンに定住してからは、演奏家、或いは教師ととしての立場からピアノ曲やピアノ協奏曲が多く書かれているが、依頼によって舞曲も生まれた。傾向としては、交響曲は古典派の流れを反映している。歌劇はドイツ語によるものとイタリア語によるものがある。どちらかというと軽妙な物語を扱うものが多い。弦楽四重奏曲は、ハイドンの作品を研究した結果作曲し、ハイドンに捧げた6曲「ハイドン・セット」は弦楽四重奏の分野の革新的な作品で、この分野の古典美を示す。宗教音楽は、カトリック信者だったため、ザルツブルク礼拝堂のための宗教音楽を多く残した。モーツアルトは自分の作品に、いわゆる作品番号を与えなかった。そのため混乱を招くことが多かったが、オーストリーの好物・植物学者で音楽研究家のルードウィッヒ・フォン・ケッヘルがその作品を整理し番号をつけてから、「k.551」(ジュピター)と呼ばれるようになった。主な作品は、歌劇「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」等、宗教音楽「ミサ曲」、「レクイエム」等、交響曲「ジュピター」、「ハフナー」、「リンツ」、「プラハ」等。
マリオ・デル・モナコ(イタリアMario del Monaco
(1915〜82)。イタリアのテノール歌手。カルーソ後のイタリア・テノールを担った大スター。1940年デビュー。ミラノのスカラ座を中心に、メトロポリタン歌劇場、コベント・ガーデン王立歌劇場など世界の大舞台に立った。“黄金のトランペット”といわれた輝かしい高音は空前絶後のものであった。
レシオ・ヤナーチェク(チェコ:Leos Janacek
モラビア地方のフクバルディ生まれ(1854〜1928)。チェコの作曲家。11歳でブルノの聖アウグスチノ会修道院の合唱隊に入り、以後苦学してプラハのオルガン学校やウィーン音楽院などで学ぶ。1882〜1920年自ら創設したブルノ・オルガン学校長、1919〜25年にはプラハ音楽院ブルノ分校でも教えた。自国の民謡を研究し、それを作品の中に生かした民族主義音楽の先駆者であつ。作品は、歌劇「エヌファ」、「ずるい小ぎつね」等。
やまだ けんぎょう(日本:山田 検校)
江戸生まれ(1715〜1817)。箏曲家・作曲家。山田流箏曲の流祖。本名は三田斗養一(とよいち)。宝生流能楽師の子として生まれるが、幼時に失明。山田松黒に師事。師と母方の生をとって山田検校と名のる。江戸の民衆の気質に合った箏曲の創作を志し、生田流とは違った一流を立てた。21歳で処女作「江の島の曲」を作曲して以来、「小督(こごう)」、「熊野(ゆや)」、葵の上」、「長恨歌」(以上を四つ物という)、他多数作曲した。
やまだ こうさく(日本:山田 耕筰)
東京生まれ(1886〜1965)。作曲家・指揮者・日本の交響曲やオペラ運動の父。1908年東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業、暫く音楽教育に従事したのちドイツに渡り、ベルリン高等音楽院に留学する。マックス・ブルッフやカール・ヴォルフに師事して作曲を学び、「墜ちたる天女」他を作曲する。1914年帰国、男爵岩崎小弥太の後援で交響楽団を結成、作曲とともに演奏活動を始めた。また、北原白秋との日本語の特色を生かした国民音楽擁立運動などをし、その間アメリカで自作の演奏会を開いた。1925年「日本交響楽協会」を創設して交響楽運動を推進した。オペラの分野でも「日本楽劇協会」の主催者となり、海外でも演奏会で自作作品の紹介を1941するなどした。楽壇の大御所といわれ、数多くの団体に関係し、文化勲章をはじめ内外から多くの賞を受けた。叙情的な作品に秀作が多い。代表作は歌劇「黒船」、管弦楽曲「明治頌歌」、歌曲「からたちの花」、「この道」、「赤とんぼ」、「六崎」等。
やまだ しょうたろう(日本:山田 抄太郎)
東京生まれ(1899〜1970)。長唄三味線演奏家・作曲家。3世杵屋六四郎に師事。1947年東京音楽学校(現東京芸術大学)講師、1943年教授となり、1950年東京芸術大学教授となる。演奏家としは、その艶のある技巧が高く評価され、作曲家としても円熟していた。1953年重要無形文化財保持者に指定された。1959年芸術院会員、1968年文化勲章を受賞した。


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